入門後〜関脇
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入門当初は185cm、83kgという体格であり、後に横綱となった自身とは似ても似つかぬ体型であった。「大ノ国」の名は、花籠親方(元幕内・大ノ海)の現役時代の四股名と、故郷である「十勝平野」にちなんで命名された。1978年3月場所で初土俵を踏む。 この場所7日目に師匠の魁傑が大関・旭國との対戦で4分26秒の大相撲で水入りして3分25秒でも勝負がつかず再水入り、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖 - 青葉山戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前の2分33秒で掬い投げで勝ち、合計10分19秒にわたる大熱戦の一番を見た。この相撲は打ち出しが18時25分に達し、NHKの相撲放送延長の新記録となっている。 本人が述懐するところによると花籠部屋時代は稽古も然ることながらちゃんこ番や雑用、付け人など部屋の仕事に特に真剣だったといい、若い衆としての仕事は花籠部屋時代の内にほぼ完璧にこなせるようになったと自らについて胸を張って証言している。1981年に引退して間もない頃の放駒(魁傑)が分家独立した放駒部屋へ移籍すると部屋のホープとして頭角を現す。創設当初の放駒部屋は稽古相手すらいないほどの小部屋であり、稽古を行うために、同じ阿佐ヶ谷にある一門の二子山部屋へ毎日出掛けていた。当時の二子山部屋は若乃花や隆の里の2横綱始め、若嶋津など大勢の現役関取が所属していた上に当時の角界の中でも一際厳しい二子山が指導を行ってたので、恵まれた環境の中で真剣に稽古に打ち込むことができた。二子山部屋での出稽古は壮絶で、時間にして20分の距離である二子山部屋から放駒部屋の間を自転車に乗って帰る力が残っていなかったという。1982年3月場所で新十両に昇進。本人は1981年3月場所から6場所連続で勝ち越した時期について「今振り返ってみても、1年間負け越しなしで十両に上がったというのはすごかったなぁと思いますよ。花籠部屋で鍛えられて、さらに二子山部屋の先輩たちに揉まれたことが、知らないうちに、私にとって大きな財産になっていたんですね」と振り返っている。実際に、二子山は「大乃国はおれのところで育ったようなものだ。」と言っていたという。翌5月場所は幕下に逆戻りするも3場所の幕下暮らしを経て11月場所に再十両を果たす。だがこの場所で九州入りした直後の稽古で右足小指の甲を骨折する怪我を負い、痛みにより場所初日まで稽古ができなくなってしまった。それでも関取の地位を守りたいという思いで痛めた足をテーピングで固めて皆勤し、この場所で11勝を挙げた。翌1983年3月場所で、奇しくものちに第63代横綱となる旭富士と共に新入幕を果たした。 新入幕の場所を8勝7敗と勝ち越した後、4場所目の1983年9月場所で新小結に昇進した。この場所は6勝9敗と負け越したために1場所で明け渡したものの、東前頭3枚目で迎えた同年11月場所では北の湖(第55代横綱)・千代の富士(第58代横綱)・隆の里(第59代横綱)の3横綱を破り、10勝5敗で初の三賞(殊勲賞)を受賞。この11月場所と翌1984年1月場所では保志が自身とともに三賞を受賞しているが、満年齢で言って最年少の幕内力士2人が揃って三賞を受賞した例としてはそれぞれ史上3例目と4例目である。 1984年1月場所では新関脇で迎えて9勝6敗と勝ち越し。同年3月場所では、大ノ国から大乃国と四股名を改め、3横綱・3大関を破って10勝5敗の成績を挙げ、殊勲賞・敢闘賞を獲得するが、下位に対する取り零しの多さが課題として残った。大関獲りの足掛かりだった次の5月場所は4日目まで3勝1敗と順当だったが、5日目の北の湖戦で敗れてから調子を狂わせてしまい、6勝9敗と負け越した。 平幕に落ちた1984年7月場所は10勝5敗で殊勲賞を獲得するなど持ち直し、蔵前国技館最後の場所となった同年9月場所では関脇に戻り、初日から好調で9日目に千代の富士を土俵際の掬い投げで破って勝ち越した。幕内初優勝の期待を抱かせたが、翌10日目は既に負け越していた逆鉾の出足に苦杯を喫し、さらに11日目はこの場所平幕優勝を果たすことになる多賀竜に上手出し投げで脆くも横転し連敗。10日目から13日目の小錦に上手投げで敗れるまで4連敗となり、結局10勝5敗に終わった。 その後3場所を一桁勝ち星と不振の場所が続いたが、1985年5月場所は前に出る攻撃相撲が増え復調し10勝5敗、東関脇で迎えた7月場所では終盤まで優勝を争って12勝3敗の成績を挙げた。それまでの直前3場所の成績は9勝・10勝・12勝の合計31勝(14敗)で、直近の大関昇進の事例と比べると勝星数で劣ったが、前年9月から6場所連続で関脇の地位に定着していたことや横綱・大関戦で互角の成績を残したことが評価され、大関昇進が決定した。この関脇時代については「上位力士を苦しめて当たり前という感じで、とても楽しい時期だったと思います」と本人が語っている。大関昇進披露宴では、引き出物に広辞苑を配り、相撲協会関係者や相撲記者を驚かせた。引き出物は押入れの奥にしまうことが多いので、役に立つものにしたかったという師匠・放駒親方の考えだったという。また、地元選出代議士である中川昭一の他に、東京大学新聞研究所長の竹内郁郎が、東京大学教授として初めて力士の後援会長を務めたことで注目を集めた。 1985年7月場所千秋楽の小錦戦は大乃国本人にとって生涯最高の相撲である。本人は引退後に「とにかく突き飛ばされないこと。まわしを取りたいけど、がっぷり四つにもなりたくない。自分にとっていちばんいい形、左の上手を引いて、右の前まわしをいかにして取るか。考えに考えましたよ」と工夫したところを語っており「絶対に勝っておかなくてはいけない一番。それに、関脇を長くやると大関になれないって、へんなジンクスもあって(当時は関脇として通算9場所め)。いろんなことが頭の中でぐるぐるしていた」と当時の気持ちを明かしていた。
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