入門後〜関脇とは? わかりやすく解説

入門後〜関脇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:40 UTC 版)

大乃国康」の記事における「入門後〜関脇」の解説

入門当初は185cm、83kgという体格であり、後に横綱となった自身とは似ても似つかぬ体型であった。「大ノ国」の名は、花籠親方(元幕内大ノ海)の現役時代四股名と、故郷である「十勝平野にちなん命名された。1978年3月場所初土俵を踏む。 この場所7日目師匠魁傑大関旭國との対戦で4分26秒の大相撲水入りして3分25秒で勝負がつかず再水入り両者休憩時間与え為に当日結びの一番北の湖 - 青葉山戦)を先に行った後、10分後改め取り直し。その取り直しの一番もまた三度目水入りとなる寸前の2分33秒で掬い投げで勝ち、合計1019秒にわたる大熱戦の一番を見た。この相撲打ち出し18時25分達しNHK相撲放送延長新記録となっている。 本人述懐するところによると花籠部屋時代稽古然ることながらちゃんこ番雑用付け人など部屋仕事に特に真剣だったといい、若い衆としての仕事花籠部屋時代の内にほぼ完璧にこなせるようになったと自らについて胸を張って証言している。1981年引退して間もない頃の放駒魁傑)が分家独立した放駒部屋移籍する部屋ホープとして頭角を現す創設当初放駒部屋稽古相手すらいないほどの小部屋であり、稽古を行うために、同じ阿佐ヶ谷にある一門二子山部屋毎日出掛けていた。当時二子山部屋若乃花隆の里の2横綱始め若嶋津など大勢現役関取所属していた上に当時角界中でも一際厳し二子山指導行ってたので、恵まれた環境の中で真剣に稽古打ち込むことができた。二子山部屋での出稽古壮絶で、時間にして20分の距離である二子山部屋から放駒部屋の間を自転車乗って帰る力が残っていなかったという。1982年3月場所新十両昇進本人1981年3月場所から6場所連続勝ち越し時期について「今振り返ってみても、1年間負け越しなしで十両上がったというのはすごかったなぁと思いますよ。花籠部屋鍛えられて、さらに二子山部屋先輩たちに揉まれたことが、知らないうちに、私にとって大きな財産になっていたんですね」と振り返っている。実際に二子山は「大乃国はおれのところで育ったようなものだ。」と言っていたという。翌5月場所幕下逆戻りするも3場所の幕下暮らし経て11月場所に再十両を果たす。だがこの場所で九州入りした直後稽古右足小指の甲を骨折する怪我負い痛みにより場所初日まで稽古ができなくなってしまった。それでも関取地位守りたいという思い痛めた足をテーピング固めて皆勤し、この場所で11勝を挙げた。翌1983年3月場所で、奇しくものちに第63横綱となる旭富士と共に新入幕果たした新入幕の場所を8勝7敗と勝ち越した後、4場所目の1983年9月場所で新小結昇進した。この場所は6勝9敗と負け越したために1場所で明け渡したものの、東前3枚目で迎えた同年11月場所では北の湖(第55横綱)・千代の富士(第58横綱)・隆の里(第59横綱)の3横綱破り10勝5敗で初の三賞殊勲賞)を受賞。この11月場所と翌1984年1月場所では保志自身とともに三賞受賞しているが、満年齢言って最年少幕内力士2人揃って三賞受賞した例としてはそれぞれ史上3例目と4例目である。 1984年1月場所では新関脇迎えて9勝6敗と勝ち越し同年3月場所では、大ノ国から大乃国四股名改め、3横綱・3大関破って10勝5敗の成績挙げ殊勲賞・敢闘賞獲得するが、下位対す取り零し多さ課題として残った大関獲りの足掛かりだった次の5月場所4日目まで3勝1敗と順当だったが、5日目北の湖戦で敗れてから調子狂わせてしまい、6勝9敗と負け越した平幕落ちた1984年7月場所10勝5敗で殊勲賞を獲得するなど持ち直し蔵前国技館最後の場所となった同年9月場所では関脇戻り初日から好調9日目に千代の富士土俵際掬い投げ破って勝ち越した。幕内初優勝期待を抱かせたが、翌10日目は既に負け越していた逆鉾出足苦杯喫し、さらに11日目はこの場所平幕優勝を果たすことになる多賀竜上手出し投げ脆くも横転し連敗10日目から13日目の小錦上手投げ敗れるまで4連敗となり、結局10勝5敗に終わったその後3場所を一桁勝ち星不振の場所が続いたが、1985年5月場所は前に出る攻撃相撲増え復調し10勝5敗、東関脇で迎えた7月場所では終盤まで優勝争って12勝3敗の成績挙げたそれまで直前3場所の成績は9勝・10勝・12勝の合計31勝(14敗)で、直近の大関昇進事例比べる勝星数で劣ったが、前年9月から6場所連続関脇地位定着していたことや横綱・大関戦で互角成績残したことが評価され大関昇進決定した。この関脇時代については「上位力士苦しめて当たり前という感じで、とても楽しい時期だったと思います」と本人語っている。大関昇進披露宴では、引き出物広辞苑配り相撲協会関係者相撲記者驚かせた。引き出物押入れの奥にしまうことが多いので、役に立つものにしたかったという師匠放駒親方考えだったという。また、地元選出代議士である中川昭一の他に、東京大学新聞研究所長の竹内郁郎が、東京大学教授として初め力士後援会長を務めたことで注目集めた1985年7月場所千秋楽小錦戦は大乃国本人にとって生涯最高の相撲である。本人引退後に「とにかく突き飛ばされないこと。まわしを取りたいけど、がっぷり四つにもなりたくない。自分とっていちばんいい形、左の上手を引いて、右の前まわしをいかにして取るか。考え考えましたよ」と工夫したところを語っており「絶対に勝っておかなくてはいけない一番。それに、関脇長くやると大関なれないって、へんなジンクスもあって(当時関脇として通算9場所め)。いろんなことが頭の中でぐるぐるしていた」と当時気持ち明かしていた。

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