入門後から十両昇進まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 10:17 UTC 版)
「明瀬山光彦」の記事における「入門後から十両昇進まで」の解説
2008年(平成20年)1月場所、本名の深尾の四股名で前相撲から初土俵を踏んだ。入門時の体重は198kgの巨漢で、腹が大きく両方の乳房がひどく垂れ下がっている一方で、素早い動きも出来ることで、序ノ口、序二段共に7戦全勝と圧倒的な強さを見せた。2008年(平成20年)3月場所の序ノ口優勝表彰式では、土俵に上がるときに乳房や腹があまりにも揺れることから観客がどよめいた。2008年(平成20年)5月場所の序二段優勝決定戦では、体型に似合わず土俵内を素早く動き回る相撲を見せたが、惜敗した。翌7月場所の三段目も6勝1敗と一場所で通過し、一気に幕下まで番付を駆け上がった。幕下昇進後も勝ち越しを続けたが、東幕下7枚目と自身初めて幕下の一桁台に番付を上げた2009年5月場所で初めての負け越しを経験した。しかし翌7月場所では6勝1敗で6人が並んだ優勝決定戦を制して幕下優勝を果たした。額が推定2.5cmととても狭く、どんな大銀杏姿になるか非常に出世が期待されていたが、2010年(平成22年)7月場所13日目、この場所は東幕下7枚目であったが、十両の佐田の海と対戦が組まれたため、本場所では初めて大銀杏を結った。 一時は番付を西幕下35枚目まで落としたが、そこから4場所連続で勝ち越し、自身最高位の東幕下2枚目で迎えた2010年9月場所も4勝3敗と勝ち越して翌11月場所で新十両を果たし、同時に四股名を深尾から「明瀬山」(あきせやま)に改名。実家の建材店「深尾タイル」のHPに四股名の由来が記述されており、両親の名前の一部から「明」、木瀬部屋から「瀬」、愛知中京クラブのコーチと埼玉栄相撲部監督の名字(山田)から「山」をそれぞれ頂戴したと説明されている。新十両昇進時には日本大学理事長の田中英壽らより化粧まわしと明荷が贈られ、「日本大学で培った精神力で卒業生の名に恥じないよう、上位をめざしたい」と抱負を語った。
※この「入門後から十両昇進まで」の解説は、「明瀬山光彦」の解説の一部です。
「入門後から十両昇進まで」を含む「明瀬山光彦」の記事については、「明瀬山光彦」の概要を参照ください。
- 入門後から十両昇進までのページへのリンク