中期:プログレ時代:『狂気』『ザ・ウォール』の成功(1970年 - 1980年)
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1970年には『原子心母(Atom Heart Mother)』を発表。本作は全英1位を記録し、批評家筋からも絶賛されるなど音楽的・商業的に成功を収める。タイトル曲は収録に前衛音楽家のロン・ギーシンを招き、オーケストラ(正確にはブラスアンサンブルにチェロを加えた編成)を全面的に取り入れた23分にわたるロック・シンフォニーである。本作以降、フロイドはプログレッシヴ・ロックを代表するバンドとして認知されるようになる。 続く1971年発表の『おせっかい(Meddle)』は、セールス面では前作『原子心母』に及ばなかったが、バンドが音楽的に大きく飛躍するきっかけとなった作品である。23分を超える大作「エコーズ(Echoes)」が収録されている。バンドはこの「エコーズ」の誕生をもって「初めてバンドがクリエイティビティを獲得した」と認識している。同年8月には初来日し、音楽フェスティバル「箱根アフロディーテ」などでコンサートを披露した。司会は糸居五郎と亀淵昭信であった。 同1971年11月に『おせっかい』ツアーが終了すると、バンドは次のアルバム制作に取り掛かった。制作に先立ち、ウォーターズは新作のアルバムのテーマとして「人間の内面に潜む狂気」を描くことを提案する。バンドはこのアイデアを元に組曲を作り上げ、それは翌1972年1月のコンサートから「A Piece for Assorted Lunatics」というタイトルで披露された。これがのちに大ヒットアルバムとなる『狂気(The Dark Side of The Moon)』である。バンドは同年同月からイギリスを皮切りにコンサート・ツアーを開始、同年3月には2回目の来日を果たしている。こちらでも『狂気』の組曲が披露された。 バンドは『狂気』制作と並行して、同年2月下旬から再びバーベッド・シュローダー監督の映画『La Vallée』のサウンドトラックも担当。フランスに赴き、約2週間で『雲の影(Obscured by Clouds)』を完成させた。こちらは全米46位を記録し、ウォーターズ作の「フリー・フォア(Free Four)」がシングル・カットされている。 明くる1973年3月、コンセプト・アルバム『狂気(The Dark Side of the Moon)』を発表。本作はウォーターズが歌詞を全面的に担当した初めての作品となった。また、フロイドのアルバムに歌詞が掲載されたのはこの『狂気』が初めてであった。発売と同時に、シングル・ヒットした「マネー(Money)」とともに初の全米1位を記録するなど全世界で大ヒットを記録、音楽的にも商業的にも大成功を収める。こうして、ピンク・フロイドは一躍スターダムにのし上がった。その後、『狂気』はビルボードアルバムTOP100に741週間(約15年間)に亘ってランクインし続けることになるが、この記録は現在(※2022年上半期時点)も破られていない。 これ以後、フロイドを取り巻く環境は一変する。コンサートの観客数は大幅に増え、客層も変わっていった。このことはバンドのメンバー、特にウォーターズを大いに苛立たせることになり、この年のコンサートツアーを終えるとバンドは長期休暇に入った。 1974年に入り、バンドは『狂気』に続くアルバムのレコーディングを開始する。当初は、楽器を一切使わずにワイングラスや輪ゴムなどの日用品を使って演奏する組曲「Household Objects」の制作を試みたが、結局は断念した。 その後、同年6月にフランス、11月にイギリスでコンサートツアーを行った。新曲「Shine on You Crazy Diamond」「You've Gotta be Crazy」「Raving and Drooling」などが披露され、次のアルバムではこの3曲を収録することが決まりかけていたが、これらの新曲を披露したコンサートを収録した海賊盤『British Winter tour』なるアルバムが大いに売れてしまったため、「You've Gotta be Crazy」と「Raving and Drooling」の収録は見送られた。この2曲は、のちのアルバム『アニマルズ』にタイトルが変更されたうえで収録されている。 新たなアルバム作りは困難を極めた。『狂気』の成功で注目を集めたことによる重圧、『狂気』でやりたいことをやり尽くしたという満足感、そして、メンバーの個人的問題などが原因であった。ウォーターズとメイスンがそれぞれ離婚の危機を抱えていたのである。 1975年、難産の末の2年ぶりの新作となる『炎〜あなたがここにいてほしい(Wish You Were Here)』を発表。大ヒットアルバム『狂気』に続く作品ということで注目されたが、セールス面では伸び悩んだ。それでも最終的には全米・全英ともに1位を記録した。これ以後、フロイドが発表するスタジオ・アルバムはいずれも大がかりなコンセプト・アルバムの体裁をとるようになる。1970年後半にはパンク・ロック勢が登場し、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、クイーンなどは「オールド・ウェーヴ」「ダイナソー(化石)・ロック」として激しく非難された。 バンドは次第にロジャー・ウォーターズのイニシアティブが強くなってゆく。1977年発表の『アニマルズ(Animals)』はコンセプトアルバムであるが、全5曲中4曲がウォーターズ単独の書き下ろしであり、ウォーターズがリード・ボーカルを担当した。サウンド面でもそれまでの幻想的な音創りは影を潜め、分かりやすいロック・サウンドになっていた。ウォーターズは中流階級出身であるが、左派的思想の持主で、彼の歌詞には独特の社会風刺がよく表れている。『アニマルズ』の歌詞、そして、のちのアルバム『ザ・ウォール』の歌詞には、彼の思想が存分に投影されている。 なお、ヒプノシスがプロデュースする『アニマルズ』のアートワークについては、バタシー発電所と豚の形のゴム風船の話が欠かせない。テムズ河畔にある旧バタシー発電所のブリックゴシック(英語版)(煉瓦ゴシック/レンガゴシック)の建築物は、『アニマルズ』に採り上げられたことで世界的知名度を挙げ、観光地化するだけでなく、音楽関係者ばかりではない他分野のクリエーターにイメージやロケ地という形で利用されるようになった。後述する豚形のゴム風船の表現力と相まって『アニマルズ』のアートワークはパロディも数多く作られている。 詳細は「バタシー発電所#ポップ・カルチャー利用」および「バタシー発電所のポップ・カルチャー利用#アルバム・アートワーク」を参照 また、ウォーターズは「空飛ぶ豚」を表した巨大なゴム風船を発案し、これがヒプノシスのアートワークに組み込まれた。オーストラリアの芸術家がデザインし、ドイツのバローン・ファブリーク社 (en, cf.) が作った豚形の巨大なゴム風船は、これを機にバンド独自のキャラクター「ピンク・フロイド・ピッグ(Pink Floyd pigs)」として定着し、ライブで使われ続けることになった。これらについては右の画像(■、■)も参照のこと。 詳細は「ピンク・フロイド・ピッグ(英語版)」を参照 『アニマルズ』発表後のツアー「Pink Floyd : In The Flesh」はヨーロッパと北アメリカを跨ぎ、当時のフロイドでは最大級のコンサート・ツアーとなった。このツアーの最終日である7月6日のカナダ・モントリオール公演で、ウォーターズは前列で大騒ぎしていた観客に激怒し、演奏途中で唾を吐き掛けるという行為に及んだ。自らのこの行為が発想の引き金となって、コンサート終了後、ウォーターズは次のアルバム制作に没頭する。一方、他のメンバーはそれぞれにソロ活動を開始し、デヴィッド・ギルモアは1978年に『デヴィッド・ギルモア(David Gilmour)』を発表してヒットを記録する。 1979年11月、2枚組アルバム『ザ・ウォール(The Wall)』を発表。シングル「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール(パート2)(Another Brick in the Wall (PartII))」とともに大ヒットを記録した。シングルにはディスコの影響が見られた。2枚組全26曲のうち、数曲を除きウォーターズが単独で作詞・作曲を行っている。共同プロデューサーとしてアリス・クーパーのプロデュースなどで知られるボブ・エズリンが招かれ、アルバムのレコーディングには多数のセッション・ミュージシャンが招かれている。 バンド内ではウォーターズの独裁化が進み、『ザ・ウォール』のセッション途中でウォーターズがリチャード・ライトを解雇するなど、メンバー間の亀裂は深くなる一方であった。ライトは1980年から翌1981年にかけて行われたツアーにサポート・メンバーとして参加したが、すでに正式なメンバーでなくなっていたため、同ツアーで発生した莫大な赤字に対する支払いを被らずに済んだ。 『ザ・ウォール』ツアーでは、演奏途中から観客席と舞台の間に実際に巨大な壁(※鉄筋コンクリート造の白い壁になぞらえた大道具的舞台装置)を構築し、それがクロジーング・ナンバー「Outside The Wall」の直前で完全に崩れ去るという大規模な演出で話題を呼んだ。ただし、あまりにも大規模で経費と手間が掛かりすぎ、実際にこの演出が行われたのは全世界で4都市のみの公演に留まった。その一方で、アルバムのコンセプトを具現化した映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』がアラン・パーカー監督の下で製作され、1981年に公開された。
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