箱根アフロディーテとは? わかりやすく解説

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箱根アフロディーテ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/08 22:45 UTC 版)

箱根アフロディーテ (はこねアフロディーテ) は、1971年8月6日金曜午前10時開場、午後2時開演から8月7日土曜)午後7時(終演)にかけて、神奈川県足柄下郡箱根町芦ノ湖畔で開催されたロック・フェスティバル[1][2][3][4][5][6]。海外アーティストを招聘した日本初の大規模野外ロック・フェスティバルとされる[1]。主催はニッポン放送[1][2][4]

日本国内外から25組[4]ミュージシャンが参加したが[4]、特に霧が立ち込める幻想的な雰囲気の中で演出されたピンク・フロイドの初来日公演で知られる[1][3][4]。こちらも有名な岐阜県中津川市で開催された第3回全日本フォークジャンボリーの初日と箱根アフロディーテの2日目が被る形で、マスメディアやファンは急いで移動した者も多かった[7]。両方のコンサートに出演したのは本田路津子長谷川きよしの二人だけである[8]

概要

1960年代後半にアメリカで開催されたモントレー・ポップ・フェスティバルウッドストック・フェスティバルなど大規模ロック・フェスの影響を受け、日本版ウッドストックを目指し企画された[1][4]目玉のピンク・フロイドの他、日本のフォーク日本のロック歌謡曲童謡(北原早苗)、ジャズの他、大学の音楽サークルらも参加した[1][2][3][6]。お客は外国人が多かったといわれる[7]。観客数2日間合わせて約4万人[4]

開催場所等

神奈川県足柄下郡箱根町芦ノ湖畔の成蹊学園乗風台[1][2][3][6]。お客は一万芝生の上で観戦した[2]。入場料、特別前売り券(7月10日まで)¥1800、前売り券(7月11日ー8月5日まで)¥2000、当日券¥2300[2]。「晴雨に関わらずコンサートは決行、芦ノ湖で釣りハイキングもOK」などと告知されていた[2]

放送など

ステージの一部がニッポン放送でもラジオ放送されたほか、FEN(AFN)でも放送が行われた[3]。またピンク・フロイドの熱狂的なファンがバンドメンバーを追いかけて、彼らに許可を取り、ビデオ撮影機などが一般にない時代、16ミリカメラを回したとされ[1]、そのフィルムをもとに編集されたものが1979年になって、開局したばかりのテレビ埼玉番組『サウンド・スーパーシティ』で放送された[1][3]。それを誰かが同録したものが海賊盤として世界的に出回っていたが[1][3]ソニー・ミュージックの担当者が長年、映像の良い物を探し、ようやく撮影者を探し出し[1]、3年がかりでデジタル作業等を施した後[5]、ピンク・フロイド側との交渉には難航したが、最終的に日本のみの限定発売として許可が降り、2021年8月4日正式にソニー・ミュージックエンタテインメントから『ピンク・フロイド『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』Pink Floyd / Atom Heart Mother (Hakone Aphrodite 50 Anniversary Edition)』のタイトルで、それらの映像を含んだボックス・セットが発売されている[1][3][5]

出演者

演出

台風をついて、重さ8トンスピーカーを箱根の山に運んだ[4]

論調

  • 週刊新潮』は「ニッポン放送の主催で、商魂が先に立ってか、でき上がりがいささかスマートさを欠く」と評し[4]、「日ごろの関係タレントを盛りだくさんに集めただけの寄合所帯で、約25組が"満足な演出"もないままステージに出たり、ひっこんだり…脈絡のない顔ぶれを露呈した…最後に登場するピンク・フロイドがお目当ての若者たちは、ハダカで日光浴の退屈ムード。折しも原爆記念日ダークダックスが『平和を祈って』風船を放っても、知らん顔。バフィー・セントメリーが『皆さん、隣の人と手をつないで』と呼びかけても同調者0。『分かったよ。もういいよ』のヤジ報道陣がカメラを向けたときだけVサインを振りかざし、シンナーをスーハ―やる連中もあったが、そのかたわらで、囁きあう二人組も…夜6時過ぎ、ようやく登場した"ピンク・フロイド"に、若者たち、暗い芦ノ湖から吹き上げる霧に震えながら熱心に聞き入ったが、それでも、メンバーが音量調整に時間をかけると『イキがるな、デイヴィ、早くやれ!』…音楽会といえば、静まり返ったクラシックコンサートか、ファンが絶叫、失神するグループサウンズのそれとばかり思っていた御仁には、この連中のマイペースぶり、ひどく印象的だったらしいが…」などと論じている[4]
  • 1971年の夏は箱根アフロディーテを含めて、各地で野外フェスが多数開催されたが[9]、そのほとんどに足を運んだという吉見佑子は「Gパンノン権力を誇示する最高のファッションになっていた。EDWINか、BIG JOHNか、CANTONか。メーカーが競り合い、レポートが出来た。ピンク・フロイドはジョー・コッカーの代わりにlittle helpを持って来た。バフィー・セントメリーはノルマンディ風ゴスペルを教えてくれ、成毛滋はみごとなるコピーでけ唐を唸らせた」などと述べている[9]

エピソード

  • 南こうせつがMCで「今日のお客さんはどうせピンク・フロイドを観に来てるんでしょうから、ピンク・フロイドに対抗すべく、いろいろ面白ろおかしくステージを務めたい」と話し、持ち前の楽しいステージを披露し、お客を上手くノセたが、その後に出て来た赤い鳥の後藤悦治郎が生真面目な人で、「自分たちは南クン達の言葉とは逆に、ピンク・フロイドを観に来ているならば、ピンク・フロイドに対抗出来る、良い音楽で勝負したい。今日は赤い鳥の音楽的な良い面を一杯発揮したい」と南の言葉を言下に拒否した[10]
  • コンサートに出演した成毛滋は、直前に受けた音楽誌のインタビューで「日本のロック・グループなんて自称ロック・グループだよ。日本の恥を切り売りしているみたいな連中。ロック・フェスティバルなんかには、出て来て欲しくない連中が出て来る。そんな中でガロなんかはいいグループだよ。CSNY物マネだなんていうヤツもいるけど、ほかのグループはその物マネも正確にはできないじゃないか」「ロック・フェスティバルの演奏時間がなさすぎるね。あんなにゴチャゴチャ出さなくて、一流バンドが4つぐらいで、たっぷりやればいいんだよ。この頃はお客さんの方に分かってるのが出てきて、PYGなんか出ると『ひっこめ』なんて言う。ああいう客が増えるといいね。もっともオレたちもフリーのコンサートで『ひっこめ』って言われたけどね(笑)。それはまた逆の意味でうれしかったよ。ファンが日本のレベルを認識してるってことでね」「レッド・ツェッペリンとか、ジェファーソン・エアプレインとかそういう連中がどんどん日本に来て、日本のロックのくだらなさを分からせて欲しいよ」などと述べている[11]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l ピンク・フロイド 歴史的新発見!50年前のピンク・フロイド幻の「箱根アフロディーテ」映像、奇跡の発掘!今鮮やかに甦る――『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』2021年8月4日発売決定。,ピンク・フロイドとの死闘~“日本初の野外ロックフェス”箱根アフロディーテ編。 「ピンク・フロイドの道は“我慢と忍耐”の道なり」ソニー・ミュージックエンタテインメント
  2. ^ a b c d e f g h 「箱根アフロディーテ 8/6 7」『guts』1971年8月号、集英社、14頁。 
  3. ^ a b c d e f g h ニッポン放送特別番組『伝説の箱根アフロディーテから50年~ピンク・フロイド貴重音源、奇跡の発掘~』”. ニッポン放送 (2021年7月29日). 2024年12月21日閲覧。岡崎正通 (2019年8月6日). “1971年8月6日、伝説の野外イベント“箱根アフロディーテ”が開催”. ニッポン放送 NEWS ONLINE. ニッポン放送. 2024年12月21日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j 「タウン 箱根アフロディーテ見聞録」『週刊新潮』1971年8月21日号、新潮社、13頁。 
  5. ^ a b c 茂木信介 (2021年7月13日). “ピンク・フロイド『原子心母』の箱根アフロディーテ50周年盤、8月リリースへ! 無双のバンド・グルーヴを極めつづけた物語がリアルに蘇る”. rockinon.com. ロッキング・オン. 2024年12月21日閲覧。
  6. ^ a b c 《学園News》箱根寮の乗風台で開催された日本初野外ロック・フェスティバル『箱根アフロディーテ』が映像と音源で甦る!7月29日にはラジオ番組生放送で紹介!学校法人成蹊学園Facebook
  7. ^ a b 広瀬勝「特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ー【リポート(1)】 箱根アフロディーテ 全日本フォーク・ジャンボリー」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、17頁。 船口幸治「特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか ーその(1)ー全日本フォーク・ジャンボリー FOLK JAMBOREE 『芦と椛のある湖の畔で』」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、21–22頁。 
  8. ^ 第3回全日本フォークジャンボリー”. 全日本フォークジャンボリー. 2025年3月8日閲覧。
  9. ^ a b 吉見佑子「特集 ドキュメント フォーク&ロック そこで何が起ったか 何が生まれたか はだしの夏が残したものは」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、26頁。 
  10. ^ 東理夫つげあきこ「ディスカバー・ヤング」『新譜ジャーナル』1971年10月号、自由国民社、29頁。 
  11. ^ 増尾好秋「ATTACK THE MAN IN THIS SUMME Rもうだまっていられない! くたばれ!ニセモノ・ロック野郎 成毛滋/角田ヒロ」『guts』1971年8月号、集英社、8頁。 



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