ラジオ期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:30 UTC 版)
エドウインの店舗BGMは好評であったが、桑原と小林の頭を悩ませる大きな問題が生じた。「スネークマン・ショー」に使う曲は、無断では使えないため一曲ごとに権利を取得し使用料を払わなくてはならない。この手間と金額が二人を悩ませた。そこで小林が、ラジオなら楽曲の使用許諾も自分たちで取る必要もない、制作費も出る、やはり多くの人に「スネークマン・ショー」を聴いてもらえると、エドウインに話を持ちかけたところ、企画が通った。 1976年4月からラジオ大阪での放送が開始された。当初の正式な番組名は『エドウイン・ロックン・ロール・ショー』で、毎週月〜金曜日の15分番組であった。タイトル名から分かるとおり、当初は純粋な音楽番組で、小林のトークは曲を盛り上げる脇役だった。土台はあくまで音楽番組にあった。桑原と小林が送る、当時あまり紹介されてこなかったジャンルの楽曲やミュージシャンをさらりとかつ熱烈に推すセンスが「スネークマン・ショー」の体臭を決定づけていた。すでに業界の大物になりつつあった小林であったが、元祖ウルフマンに倣い、あえてその名を明かさず、スネークマンという謎のキャラクターで押し通すことを決めていた。 ラジオ大阪1局で開始した「スネークマン・ショー」であったが、次第に関西で話題となり、ほどなく東海ラジオ放送とラジオ関東でも放送を開始した。桑原と小林は内容の幅を広げようと画策し、スネークマンは英語しか話さないという設定だったため、日本語担当が必要になった。小林がラジオ番組を収録していたエフエム東京のスタジオの隣でコマーシャルの録音をしていた共演経験のある伊武雅之(現・伊武雅刀)を見つけ、小林が「俺さ、今、こういうことやってるんだけど、一緒にやらない?」と誘ったことがきっかけで伊武が加入する。俳優の伊武は、声の良さから当時『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』(讀賣テレビ放送・日本テレビ放送網)のデスラー総統役や資生堂・MG5のCMなど、少しずつ声優としての活動を始めていた時期であった。伊武が加わり、スネークマンのDJのみであったスネークマン・ショーは、曲紹介の合間に小林と伊武とのショート・コントを織り交ぜるという形になり、小林は咲坂 守(さきさか まもる)、伊武は畠山 桃内(はたけやま ももない)といったキャラクターを演じた。芸域の広い伊武の参加でコントは厚みを増し、毒気やラジカルさに向かっていくことになる。特に1977年頃に興ったパンク・ムーブメントの到来は、スタート当初の曲のつなぎのためのシンプルなジョークという世界を大きく逸脱していく。スネークマン・ショーがウルフマン・ジャックや海外のコントの翻案ではない、オリジナルな世界を持つラジオ・ショーに脱皮したのはパンクの衝撃から来たものであった。しかし1978年3月、エドウインのスネークマン・ショー担当者が退社したのを機に、エドウインがスポンサーを降りることになり番組終了が決定した。 当時、スネークマン・ショーは業界人の秘かなお気に入り番組だったが、そのひとりである杉山恒太郎(電通第二クリエーティブ局に所属)が、小林から番組終了の話を聞いて、それはもったいないと、広告を担当していた小学館の『GORO』がスポンサーになっていた番組が改編期で、スネークマン・ショーを仲介してその番組に移籍が決まるが。タイトルまでそのままというわけにはいかず、ラジオ関東での番組終了から3日後の1978年4月3日(オフィシャルBOOKに従う)の『生島ヒロシの夜はともだち おーい! きいてるかい』(TBSラジオ)のコーナーとして、タイトルも「それゆけスネークマン」となり15分番組(22:45 - 23:00)として生き延びる。 スネークマン・ショーはこの時代多くのCMを手掛けている。1977年 - 1978年頃のサンヨーのラジカセ「ステレオ・レック9500」のラジオCM(コピー:糸井重里)、1979年、ソニー・ウォークマンラジオCM(コピー:仲畑貴志)、同年映画『さらば青春の光』ラジオCMなど。同年に手がけたトヨタ1300スターレットラジオCMとアサヒミニ樽テレビCMは、いずれもACC(全日本シーエム放送連盟)CMフェスティバルで入賞している。 ローカル放送から東京のキー局に移ったことでスネークマン・ショーの人気は全国区のものとなる。コントはますますパワーアップし、下ネタのお下劣化はいっそう著しく、風刺ネタもふんだんに採り入れられていった。小林が咲坂守、伊武が畠山桃内を名乗り、フィクションをいいことにラジオ史上稀にみる破天荒な放送がぶちまけられていった。今までラジオでなかったことをやろうと多くのタブーに挑戦した。ラジオではどもってはいけないが、日本語はダメだけど英語ならいいだろうであるとか、1979年8月14日には、放送業界のタブーに触れたコント「あなたのラジオは30秒後に爆発します」を放送、NHK番組終了時の『君が代』を繰返し繰返し聞かせるというパロディでは、右翼から抗議の電話で局側としても対応に苦慮したといわれる。また当時はほぼタブーとされていた同性愛者に関するコーナーを作ったり、麻薬ネタ、反権力、社会的批判を込めたコント、過激な下ネタなどが社内で問題となる。放送禁止になることもあり、こうした過激さが番組の寿命を縮める。1979年10月8日、『夜はともだち』のパーソナリティーが生島ヒロシから春風亭小朝に代わると、小朝は露骨にスネークマン・ショーを嫌って「へんな人たちですねえ」などとイヤミをこぼした。 ラジオ番組としてのスネークマン・ショー終焉の悲劇は、最初は朗報としてもたらされた。「ローリング・ストーン日本版」時代から多くのミュージシャンと交流があった桑原に、1980年当時若者に絶大な人気があったイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の細野晴臣と高橋幸宏が、まとまったアルバムを制作する時間が取れない忙しさから、ギャグと音楽で構成されるスネークマン・ショー形式のミニ・アルバムの制作を決めた際、スネークマン・ショーにコントの提供を申し出て、スネークマン・ショーはYMOとの全面的なコラボレーションを行う。このアルバムの制作中にYMOからもう一つの依頼を受けた。1980年4月23日に日本武道館で行う小学館の雑誌「写楽」創刊イベント『写楽祭』の演出であった。意気に感じた桑原はスネークマン・ショー的なシュールで不思議な余興を演じた後、最後にYMOのコンサートを行うという、それまでの番組で繰り返してきたコンセプトを再現したが、打合せがあまり行われないまま本番となった。元々、通常のコンサート形式ではなく、ギャグが主体のイベントだということが1万人の観客に事前に伝わっておらず、トラブル続発の上、いつまでたってもYMOのコンサートが始まらないことで観客が暴動を起こし、新雑誌創刊のセレモニーが早々中止され、スポンサーの小学館は怒り心頭であった(詳細は後述)。すでに大スターであるYMOを怒るわけにもいかず、TBS上層部の怒りの矛先はスネークマン・ショーに向けられ、同番組は1980年6月いっぱいでいきなり終了する(終了までの間、坂本龍一の怒鳴り声は番組のジングルとして使用された)。先鋭化し続けるスネークマン・ショーの世界観を危惧していた局や、スポンサー、放送関係者はここぞとばかり責任をスネークマン・ショーに転嫁したという。 その直後、『サウンドストリート』(NHK-FM)で桑原をゲストに迎え特集が放送されたが、使用されたコントはTBSの放送済音源でレコード化されていないものがほとんどだった。
※この「ラジオ期」の解説は、「スネークマンショー」の解説の一部です。
「ラジオ期」を含む「スネークマンショー」の記事については、「スネークマンショー」の概要を参照ください。
- ラジオ期のページへのリンク