ポーツマス条約の全権に
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「セルゲイ・ウィッテ」の記事における「ポーツマス条約の全権に」の解説
「ポーツマス条約」も参照 1905年5月の日本海海戦により日露戦争での日本の優位が決定的になると、ウィッテは1905年7月、講和のためアメリカのポーツマスにロシア側の首席全権としておもむき、交渉に当たることとなった。 候補としては駐仏大使のアレクサンドル・ネリードフ(英語版)を首席全権とする案が有力だったが、本人から「一身上の都合」により断られた。その後、駐日公使の経験をもつデンマーク駐在大使のアレクサンドル・イズヴォリスキー(のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテが首席全権に選ばれた。イズヴォリスキーは、ウィッテの名を挙げてラムスドルフ外相に献策したといわれる。失脚していたウィッテが首席全権に選ばれたのは、日本が伊藤博文を全権として任命することをロシア側が期待したためでもあった。講和会議の次席全権を務めた駐米大使(日露開戦時の駐日公使)のロマン・ローゼンは、ニコライ2世から疎まれていたウィッテが首席全権と決まったとき、これを歓迎し、 彼ウィッテは、本国政府の思惑をはばかったり、迎合する根性から、ロシアの真の利益を犠牲にするような男ではない。彼は、現下ロシアで、意見をもつただ一人の人物である。 と述べたといわれている。 ウィッテは皇帝より、寸分の領土の割譲も一銭の賠償金の支払いも認めてはならないという訓令を受けており、また、何が何でも講和をめざすべきではないとも指示されていた。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった。ウィッテは「大阪毎日新聞」特派員に対し、「露国はなお依然強盛たるを失わず、しかして日本は従来信ぜられたるほどに優勢というべからず、平和談判について露国は現時においては未だ屈辱的条件を承認するあたわず」と述べた。交渉では、ウィッテはタフ・ネゴシエーターとして見事な外交手腕を発揮し、勝者のはずの日本が実は既に戦争の継続が不可能なほど疲弊していることを見抜いて日本側を翻弄し、損失を最小限に留めることに成功している。ウィッテは、領土や賠償金は完敗した国が支払うべきものであり、ロシアは余力があるのだから支払う必要はないと小村ら日本側の要求を突っぱねたのである。 ロシアの財政事情を知悉していたウィッテは、財政立て直しのことを考えると、これ以上戦争を継続することは軍事的には可能であっても、財政上も国内情勢の上でも継戦は困難であり、避けるべきとの考えに立っていた。したがって、可能な限り有利な条件での合意を目指したが、一方でロシア国内では主戦論が再び持ち上がっていることに対しても留意しなければならなかった。ウィッテは開戦に至る過程でも、皇帝周辺の冒険主義的な外交政策に批判的だったので、日本との講和交渉をまとめることについては心理的抵抗感がなかったとみられる。ある意味では、ウィッテを全権に選んだ時点で、ロシアは暗黙のうちに一定の妥協をおこなうことは織り込み済みだったのである。ウィッテは欧米金融資本の期待感とアメリカ合衆国の世論をうまく味方につけ、自国に有利な講和条件を獲得した。彼の回想録には、以下のような記載がある。 ロシアが革命の危機を切り抜け、ロマノフ王朝を安固な位置におくには、どうしても2つの問題を解決する必要がある。1つは数年間資金の逼迫をきたさないだけの外債を成立させること、もう一つはすみやかに軍隊の大部をザ・バイカルからヨーロッパ・ロシアに帰還させることである———というのが、当時私の抱懐していた意見であった。 日露両国は結局、1905年8月、ロシアが樺太(サハリン島)南部を日本に割譲することで合意した(ポーツマス条約)。 ウィッテはまた、東清鉄道南満洲支線(のちの南満洲鉄道)を譲渡する意向を示したが、譲渡範囲はあくまでも日本の野戦鉄道提理部がゲージの縮小を完了した区間のみとし、遼東半島からハルビンまでの譲渡を求める日本側と対立した。結局、これもウィッテの言い分が通って、日本軍が実効支配する長春・旅順間が日本に引き渡された。ウィッテ本人はまた、樺太全島を日本に譲渡するかわりに、償金を支払わないかたちで講和を結ぶことを望んでいた。そして、日露戦争でロシア財政が破綻しつつあり、ロマノフ朝が革命の波を乗り越えていくためにこそ、新たに外債を得る必要があると考え、そのためには賠償なしの講和をどうしても実現させなければならないと考えていた。彼は本国政府に、樺太も賠償金も両方とも拒否して戦争を継続するというのでは、欧米の世論はロシアに不利になってしまうと説得しているが、それが無賠償講和のためならば樺太を日本に割譲してもよく、欧米金融資本の関心の薄い樺太に固執すべきではないという考えからだった。合意成立後、会見に現れたウィッテは「勝った」と叫んだが、合意内容をウィッテから聞いたニコライ2世は、その日の日記に「終日頭がくらくらした」と書き記している。しかし、皇帝もまた数日して周囲の反応をうかがい、合意内容を了承したという。 この外交的成功ののち、ウィッテは皇帝に手紙を書き、そのなかでロシアの政治改革の必要性が緊急なものであることを強調した。彼はスヴャトポルク=ミルスキーの後任内相であるアレクサンドル・ブルイギンの提案には不満を持っていた。露暦8月6日の詔書では下院は諮問機関としての役割しか持たなかった。そして、議員は直接選挙ではなく4段階で行われ、選挙権に階級・財産による制限を設けていたため、知識人や労働者階級の多くが排除されていた。 ウィッテはまた、渡米に先立ってフランスやアメリカの金融資本家の意向をただしており、同盟国フランスからは、講和後の外債なら応じてもよいとの返答を得ていた。ウィッテはポーツマスからの帰路、フランスに立ち寄って借款を取り決めるという離れ業を行ってみせた。そのため彼は、ロシア第一革命と対日敗戦の苦境を「金貨で救った」と評される。こうして、100万を超すといわれたロシアの軍隊は極東の地からヨーロッパへと移された。 9月末、ウィッテはサンクトペテルブルクに帰還し、その翌日にフィンランド湾に面した保養地で休養中だった皇帝一家のもとに出向いてニコライ2世と会見した。皇帝は、ウィッテのポーツマスでの交渉を称えて伯爵の称号を授けた。しかし、人びとはウィッテに対し「半サハリン伯爵」という皮肉なあだ名をつけたという。平和の到来は、ロシアの民衆にとっては喜ばしいことのはずであったが、講和条約成立に反対した右派のなかには日本への南サハリン割譲はウィッテの失策にほかならないとして彼を責める者もあった。『スロヴォ』紙は、「ロシアをこれほど貶めた体制に対する不滅の憤り」を誓う記事を掲げ、宮廷人のなかにはウィッテは和平に失敗したと断じ、彼にはユダヤ人の血が流れているとほのめかす者があることを報じた。 なお、ロシア帰還後、ニコライ2世がウィッテらには内緒で7月にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とのあいだでビョルケ密約(英語版)を結んでいたことを知った彼は、ラムスドルフ外相と協力してドイツとの同盟が発効しないよう図った。この密約は、ヨーロッパの1国からドイツ、ロシアのいずれかが攻撃を受けた場合、他の1国は陸海軍の全力をあげてヨーロッパで援助をおこない、講和も共同でおこなうというものであり、ウィッテとラムスドルフは、この密約が露仏同盟の条項に違背していることを指摘したのである。この件については、もし皇帝がウィッテとラムスドルフの議論を聞き入れなかったら、「ヨーロッパ史全体そして世界史全体が異なったものになったかもしれない」という議論がある。
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