ポーツマス条約の全権にとは? わかりやすく解説

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ポーツマス条約の全権に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:07 UTC 版)

セルゲイ・ウィッテ」の記事における「ポーツマス条約の全権に」の解説

ポーツマス条約」も参照 1905年5月日本海海戦により日露戦争での日本優位決定的になると、ウィッテ1905年7月講和のためアメリカポーツマスロシア側の首席全権としておもむき交渉に当たることとなった候補としては駐仏大使のアレクサンドル・ネリードフ(英語版)を首席全権とする案が有力だったが、本人から「一身上の都合」により断られた。その後駐日公使経験をもつデンマーク駐在大使アレクサンドル・イズヴォリスキー(のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテ首席全権選ばれた。イズヴォリスキーは、ウィッテの名を挙げてラムスドルフ外相献策したといわれる失脚していたウィッテ首席全権選ばれたのは、日本伊藤博文全権として任命することをロシア側が期待したためでもあった。講和会議次席全権務めた駐米大使日露開戦時の駐日公使)のロマン・ローゼンは、ニコライ2世から疎まれていたウィッテ首席全権決まったとき、これを歓迎し、 彼ウィッテは、本国政府思惑をはばかったり、迎合する根性から、ロシア真の利益犠牲にするような男ではない。彼は、現下ロシアで、意見をもつただ一人人物である。 と述べたといわれている。 ウィッテ皇帝より、寸分領土割譲一銭賠償金の支払い認めてならないという訓令受けており、また、何が何でも講和をめざすべきではないとも指示されていた。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞いロシアは必ずしも講和欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった。ウィッテは「大阪毎日新聞特派員対し、「露国はなお依然強盛たるを失わずしかして日本従来信ぜられたるほどに優勢というべからず、平和談判について露国現時においては未だ屈辱的条件承認するあたわず」と述べた交渉では、ウィッテタフ・ネゴシエーターとして見事な外交手腕発揮し勝者のはずの日本が実は既に戦争の継続不可能なほど疲弊していることを見抜いて日本側を翻弄し損失最小限留めることに成功している。ウィッテは、領土賠償金完敗した国が支払うべきものであり、ロシア余力があるのだから支払う必要はないと小村日本側の要求突っぱねたのであるロシア財政事情知悉していたウィッテは、財政立て直しのことを考えると、これ以上戦争継続することは軍事的には可能であっても財政上も国内情勢の上でも継戦は困難であり、避けるべきとの考え立っていた。したがって可能な限り有利な条件での合意目指したが、一方でロシア国内では主戦論が再び持ち上がっていることに対して留意しなければならなかった。ウィッテ開戦に至る過程でも、皇帝周辺冒険主義的な外交政策批判的だったので、日本との講和交渉をまとめることについては心理的抵抗感がなかったとみられるある意味ではウィッテ全権選んだ時点で、ロシア暗黙のうちに一定の妥協をおこなうことは織り込み済みだったのであるウィッテ欧米金融資本期待感アメリカ合衆国世論をうまく味方につけ、自国有利な講和条件獲得した彼の回想録には、以下のような記載がある。 ロシア革命危機切り抜けロマノフ王朝安固位置におくには、どうしても2つ問題解決する必要がある1つ数年資金逼迫きたさないだけの外債成立させること、もう一つすみやかに軍隊大部ザ・バイカルからヨーロッパ・ロシア帰還させることである———というのが、当時私の抱懐していた意見であった日露両国結局1905年8月ロシア樺太サハリン島南部日本割譲することで合意したポーツマス条約)。 ウィッテまた、東清鉄道南満洲支線(のちの南満洲鉄道)を譲渡する意向示したが、譲渡範囲あくまでも日本野戦鉄道提理部ゲージ縮小完了した区間のみとし、遼東半島からハルビンまでの譲渡求め日本側と対立した結局、これもウィッテ言い分通って日本軍実効支配する長春旅順間が日本引き渡された。ウィッテ本人また、樺太全島日本譲渡するかわりに償金支払わないかたちで講和を結ぶことを望んでいた。そして、日露戦争ロシア財政破綻しつつあり、ロマノフ朝革命の波を乗り越えていくためにこそ、新たに外債を得る必要がある考え、そのためには賠償なしの講和をどうしても実現させなければならない考えていた。彼は本国政府に、樺太賠償金両方とも拒否して戦争継続するというのでは、欧米世論ロシア不利になってしまうと説得しているが、それが無賠償講和のためならば樺太日本割譲してもよく、欧米金融資本関心の薄い樺太固執すべきではないという考えからだった。合意成立後会見現れウィッテは「勝った」と叫んだが、合意内容ウィッテから聞いたニコライ2世は、その日日記に「終日頭がくらくらしたと書き記している。しかし、皇帝もまた数日して周囲の反応うかがい合意内容了承したという。 この外交的成功ののち、ウィッテ皇帝手紙書きそのなかでロシアの政治改革必要性緊急なのであることを強調した。彼はスヴャトポルク=ミルスキーの後任内相であるアレクサンドル・ブルイギン提案には不満を持っていた。露暦8月6日詔書では下院諮問機関としての役割しか持たなかった。そして、議員直接選挙ではなく4段階で行われ選挙権階級財産による制限設けていたため、知識人労働者階級多く排除されていた。 ウィッテまた、渡米先立ってフランスアメリカ金融資本家の意向ただしており、同盟国フランスからは、講和後の外債なら応じてもよいとの返答得ていた。ウィッテポーツマスからの帰路フランス立ち寄って借款取り決めるという離れ業行ってみせた。そのため彼は、ロシア第一革命対日敗戦苦境を「金貨救った」と評される。こうして、100万を超すといわれたロシア軍隊極東の地からヨーロッパへ移された。 9月末、ウィッテサンクトペテルブルク帰還し、その翌日フィンランド湾面した保養地休養中だった皇帝一家のもとに出向いてニコライ2世会見した皇帝は、ウィッテポーツマスでの交渉称えて伯爵称号授けた。しかし、人びとウィッテ対し「半サハリン伯爵」という皮肉なあだ名をつけたという。平和の到来は、ロシア民衆にとっては喜ばしいことのはであったが、講和条約成立反対した右派なかには日本への南サハリン割譲ウィッテ失策ほかならないとして彼を責める者もあった。『スロヴォ』紙は、「ロシアこれほど貶めた体制対す不滅憤り」を誓う記事掲げ宮廷人のなかにはウィッテ和平失敗した断じ彼にユダヤ人の血が流れているとほのめかす者があることを報じた。 なお、ロシア帰還後ニコライ2世ウィッテらには内緒7月ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とのあいだでビョルケ密約英語版)を結んでいたことを知った彼は、ラムスドルフ外相協力してドイツとの同盟発効しないよう図った。この密約は、ヨーロッパの1国からドイツロシアいずれか攻撃受けた場合、他の1国は陸海軍全力をあげてヨーロッパで援助おこない講和共同でおこなうというものであり、ウィッテラムスドルフは、この密約露仏同盟条項違背していることを指摘したのである。この件については、もし皇帝ウィッテラムスドルフ議論聞き入れなかったら、「ヨーロッパ史全体そして世界史全体異なったものになったかもしれない」という議論がある。

※この「ポーツマス条約の全権に」の解説は、「セルゲイ・ウィッテ」の解説の一部です。
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