ポーツマス交渉と小村家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)
「小村壽太郎」の記事における「ポーツマス交渉と小村家」の解説
日露講和会議のためポーツマスに向けて出発する際のエピソード(上述)からも、大国ロシアは必ずしも戦争に負けたとは考えていないことを小村はよく理解しており、そのため交渉は難航するであろうこと、そしてロシアから引き出せる代償も一般の日本国民が期待するものからは程遠いものになるだろうことを当初から予見していた。ロイター通信や『タイムズ』紙が日本寄りのニュースを配信していたこともあって、1905年当時のアメリカでは日本びいきの世論が醸成されていた。そこで手練手管の政治家ウィッテは、日露間で秘密とすることで合意している交渉の途中経過をアメリカの新聞記者にリークして恩に着せるという瀬戸際の世論工作を繰り広げたが、律儀な小村は最後まで合意を守って口を閉ざした。 ポーツマス条約が結ばれた深夜、ホテルの一室から妙な泣き声が聞こえてくるのを不審に思った警備員がその部屋を訪ねると、泣きじゃくっていたのは誰あろう小村全権その人だった。小村にとってこの条約に調印することはそれほど苦渋の決断だったのである。予想通り、帰国した小村を待ち構えていたのは怒り狂う群衆だった。家族全員で帰国する小村を横浜まで迎えにいこうとすると、身の安全が保障できないとして、誰も迎えに行かないでほしいと憲兵に言われ、小村を迎えに行けなかった。結局、長男の欣一だけが横浜に行くことを許され、小型船に乗り込み、船室の小村と対面することができた。小村は、欣一の顔を見るなり「おお、無事だったか」と言ってつくづくと顔をながめたという。外相官邸が襲撃され、小村の家族は斬殺されたという噂が流れたので、実際に息子の顔をみてようやく安堵したのであった。新橋駅では、「速やかに切腹せよ」「日本に帰るよりロシアに帰れ」などという散々な罵声を浴びせられた小村を、出迎えた首相の桂と海相の山本権兵衛は両脇を挟むようして歩き、爆弾でも投げつけられたら共倒れの覚悟で総理官邸まで彼を護衛している。その後も小村邸への投石などの騒乱は収まらず、妻のマチは精神的に追い詰められ、小村はしばらくの間家族と別居することを余儀なくされた。
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