ブーゲンビル島沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:27 UTC 版)
「川内 (軽巡洋艦)」の記事における「ブーゲンビル島沖海戦」の解説
アメリカ軍のブーゲンビル島侵攻に伴い11月2日に生起したブーゲンビル島沖海戦で川内は、米艦隊の砲撃雷撃を受けて沈没した。経過は以下の通りである。 10月27日、連合軍約6300名がトレジャリー諸島モノ島へ上陸、海兵隊725名がチョイセル島へ上陸した。連合軍の目標はブーゲンビル島タロキナ岬への上陸と飛行場建設であって、モノ島上陸はその前哨戦であった。アメリカ軍の水上戦力は、輸送船団(駆逐艦11、輸送船12)、第39任務部隊(アーロン・S・メリル少将:巡洋艦4、駆逐艦8)、第38任務部隊(フレデリック・C・シャーマン少将:空母2隻《サラトガ、プリンストン》、護衛艦)で、アメリカ軍からみれば『不充分』であったという。同日の南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)直率水上部隊(連合襲撃部隊:指揮官第五戦隊司令官大森仙太郎少将)は、第一襲撃部隊(妙高、羽黒、長良)、第二襲撃部隊(川内、皐月、文月、卯月、夕凪)という編制だった。襲撃部隊の出撃は草鹿中将の下令により中止、同日附で軽巡長良は連合襲撃部隊からのぞかれトラックへ回航され、11月1日附で第四艦隊に編入されている。10月31日、タロキナへ向かうアメリカ軍輸送船団の発見により連合襲撃部隊(妙高、羽黒、川内、文月、水無月、時雨、五月雨、白露)は14時30分にラバウルを出撃、ブーゲンビル島方面へ向かうも、アメリカ軍輸送船団まで約30浬とせまりながら同船団を発見できなかった。11月1日、輸送任務中の卯月はブカ島西方でメリル少将隊(巡洋艦4、駆逐艦8)と遭遇、砲撃を受けながらも避退に成功し「重巡2-3隻、駆逐艦5隻以上」を報告している。連合襲撃部隊はメリル隊と約20〜30浬ですれ違い、双方とも敵艦隊を発見できなかった。同日10時20分、連合襲撃部隊はラバウルに帰着した。 11月1日午前中、第八方面軍はブーゲンビル島タロキナへの逆上陸を企図し、南東方面艦隊と協議した結果、第一航空戦隊の基地物件を輸送してラバウルに到着したばかりの各艦(軽巡《阿賀野》、駆逐艦《大波、長波、若月、初風》)をもって第三襲撃部隊を編制した。連合襲撃部隊もラバウル帰投後ただちに燃料補給と打ち合わせを行い、総指揮官大森少将/第五戦隊司令官、連合襲撃部隊本隊(妙高、羽黒)、第一警戒隊/第二襲撃隊(川内、時雨、五月雨、白露)、第二警戒隊/第三襲撃隊(阿賀野、長波、初風、若月)、輸送隊(天霧、夕凪、文月、卯月、《水無月のみ単独ブカ島輸送》)という戦力が揃う。各部隊は15時30分にラバウルを出撃したが、輸送隊の小発動艇搭載に時間がかかり、夜間揚陸作戦成功の見込みがなくなった。本艦は19時45分と20時53分に爆撃(B-24)を受けたが、被害はなかった。だがアメリカ軍に発見されたことで逆上陸の可能性は消え、草鹿中将は輸送部隊(天霧、卯月、文月、夕凪)のラバウル帰投と、連合襲撃部隊のアメリカ軍輸送船団襲撃を命じた。一方、連合軍哨戒機も日本艦隊の動向を通報。アメリカ軍輸送船団を護るため、メリル少将の第39任務部隊(巡洋艦4隻、駆逐艦8隻)はタロキナ岬沖へ進出、日本艦隊との対決航路を取った。 11月2日(月齢3、海上静穏、半晴、視界8-15km)の日付変更時点で、連合襲撃部隊は大森少将(旗艦妙高)の本隊/第五戦隊(重巡妙高、羽黒)が中央、第二襲撃部隊(指揮官伊集院三水戦司令官:軽巡川内、第27駆逐隊《時雨、五月雨、白露》)が本隊左前方約5km、第三襲撃部隊(指揮官大杉守一第十戦隊司令官:軽巡阿賀野、駆逐艦《長波、初風、若月》)が本隊右前方を航行、そして妙高・羽黒偵察機の触接によりアメリカ軍メリル隊の方向へ航行していた。0045、ほぼ同時に2隻(川内、時雨)が110度方向9000mに敵艦隊発見を報告、5分後には主隊(妙高、羽黒)が照明弾を発射してブーゲンビル島沖海戦(アメリカ軍呼称エンプレス・オーガスタ湾海戦)が始まった。メリル隊は連合襲撃隊の左前方に位置しており、必然的に最も近い距離にいた第二襲撃隊および本艦が最初に集中砲火を浴びた。0100前後には主機械が停止、舵故障、航行不能となった。川内指揮下の第27駆逐隊は各艦魚雷8本を発射後、0052に至近弾を受けた白露が不意の運動で五月雨と衝突、両艦とも20ノット以上を出せなくなった。第27駆逐隊司令原為一大佐(司令駆逐艦時雨)は、先頭艦(川内)が右旋回したため時雨も転舵、その混乱により2隻(五月雨、白露)が衝突したと回想している。また被弾・炎上して航行不能となった川内から伊集院司令官移乗のため時雨に対し接近命令が出たが、戦闘中のためあえて黙殺(川内に接近すると時雨も巻き添えとなるため)、戦闘終了後に救助することに決定したという。敵艦隊攻撃よりも回避運動を優先していた主隊と第三襲撃部隊は0107に妙高と初風が衝突し、初風は落伍した。この間、アメリカ軍は駆逐艦フートが魚雷命中により艦尾を吹き飛ばされた。川内が発射した魚雷が命中したとする文献もある。0116、主隊(妙高、羽黒)はメリル隊にむけ初めて射撃を開始、同時に雷撃をおこなうが、メリル隊に深刻な損害を受けた艦はなかった。 0134、大森司令官は退却を下令、アメリカ艦隊は敗走する日本艦隊を追撃した。川内は円運動を描きながら射撃を続けていたが、バーナード・L・オースティン中佐の第46駆逐隊(サッチャー、コンヴァース)に発見され、攻撃を受けた。米駆逐艦2隻は魚雷8本を発射して2回の爆発音を確認した。第46駆逐隊が去ったあと、今度はアーレイ・バーク大佐率いる第45駆逐隊(チャールズ・オースバーン、ダイソン、スタンリー、クラクストン)が到着し、砲撃して撃沈したという。このあとアメリカ軍駆逐隊は漂流する初風を撃沈して戦場を去った。本海戦でアメリカ軍駆逐隊は魚雷52本を発射、うち2本が川内に命中したとみられる。0334、戦場離脱中の白露は炎上する艦艇1隻を認めた。0530、戦場に取り残されていた川内は右舷に傾斜して沈没した。沈没地点.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯06度10分 東経154度20分 / 南緯6.167度 東経154.333度 / -6.167; 154.333。荘司喜一郎大佐(川内艦長)は脱出せず行方不明(戦死)、第三水雷戦隊司令部はカッター2隻に乗り脱出した。 大森少将は損傷艦乗員救助のための潜水艦派遣を要請し、派遣された呂104によって11月3日午後に伊集院司令官以下、川内に乗艦していた者75名が救助され、同潜水艦は11月5日にラバウルに着いた。他に川内の乗員47名と三水戦要員4名がセント・ジョージ岬に自力でたどり着き生還した。生存者311名、戦死185名(艦長含む)と記録されている。 1944年(昭和19年)1月5日、川内は二等巡洋艦川内型、帝国軍艦籍、それぞれから除籍された。
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