ハルハ河東岸両軍戦車隊の戦いとは? わかりやすく解説

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ハルハ河東岸両軍戦車隊の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「ハルハ河東岸両軍戦車隊の戦い」の解説

6月30日戦車第4連隊九五式軽戦車中隊ソ連第11戦旅団対戦車砲初め交戦した。そこでソ連軍53-K 45mm対戦車砲砲撃により95式軽戦車1輌が撃破された。その対戦車砲砲弾200発は日本軍鹵獲されたが、その弾速の速さ日本軍戦車将校たちは「閃光を見るか見ないうちに我が方戦車に穴が開いていた」と衝撃を受け、第4連隊玉田美郎連隊長は「敵の兵器性能我が方より優れており、敵の資質予想していたより遥かに高い」と悟らされた。 7月2日第1次ノモンハン事件消極的な戦い方非難受けていた山県率い歩兵第64連隊が、ハルハ河東岸ソ連軍対し攻撃開始したが、進撃開始するや、ソ連軍砲兵2個連隊激し砲撃前進停止させられた。特に西岸砲兵陣地設置されていたノモンハンでは初め投入されML-20 152mm榴弾砲威力絶大で、2時間渡って砲撃を受け続けた64連隊兵士らは「筆舌に尽くしがたい敵の弾幕恐れ抱いた」、「ソ連軍砲撃中国経験したことのない効果的なものであった」との感想抱き日本軍の第13砲兵連隊阻止射撃が強力過ぎて効果的な反撃ができなかった。 吉丸清武大佐率い戦車第3連隊は、歩兵支援のために夕刻6時15分から前進開始ソ連軍砲兵陣地撃滅目指したが、降り始めた目隠しとなり、8時頃に最右翼を進む第1中隊砲兵陣地突入成功し野砲2門撃破、2門を捕獲した。しかしピアノ線鉄条網引っかかって行動不能となった装甲車2輌が対戦車砲直撃を受け撃破された。第4小隊長の古賀康男少尉撃破された九七式軽装甲車車載機銃下ろして包囲したソ連兵相手戦い激闘1時間30分、最後拳銃まで撃ち尽くして戦死している。連隊長吉丸新型九七式中戦車に自ら搭乗し攻撃先頭立って装甲車野砲撃破したが、機械化部隊とは名ばかりで、十分な自動車が無い歩兵第64連隊輓馬が引く砲兵隊戦車付いていくことができず、折角蹂躙したソ連軍陣地戦車単独では確保することはできないため、後退余儀なくされた。 安岡日中ソ連軍砲撃激しいため、夜襲を行うこととし戦車第4連隊7月2日から3日夜間に、戦史上初のまとまった戦車部隊での夜襲となったバルシャガル高地攻撃行った暗闇雷雨紛れて突入した第4連隊八九式中戦車9輌、九五式軽戦車28輌、94軽装甲車3輌の内、日本軍損失95式軽戦車1輌に対し行動不能となった回収できず放棄、後にソ連軍鹵獲ソ連軍戦車2輌・装甲車10輌・トラック20台・砲多数撃破しソ連軍防御陣地奥深くまで突破するなど活躍見せている。 ハルハ河周辺を巡る7月戦いでソ連・モンゴル軍は合計452輌の戦車装甲車投入したのに対し日本軍投入した戦車装甲車92輌と5分の1の数であったが、この時点ハルハ河東岸配備されていたソ連・モンゴル軍は3,200名の兵員に、122mm榴弾砲8門を含む重砲野砲28門、対戦車砲7門、装甲車62輌、それに第11戦旅団から分遣され戦車30輌と、攻め安岡支隊兵力のほうがやや勝っていた。日本軍による戦果判定ではその内300名の兵士死傷させ、20輌の戦車多数の砲を破壊しハルハ河東岸ソ連軍陣地は相当に弱体化しており、ソ連軍モンゴル軍は、猛攻してくる日本軍戦力将兵38,000人、砲310門、戦車装甲車200輌と何倍にも過大評価するほど厳し戦況となっていたが、東岸ソ連軍陣地援護できる位置には152mm榴弾砲12門、122mm榴弾砲8門、76mm野砲連隊砲14門が配置され、また予備戦であった第11戦旅団自動車化狙撃兵連隊装甲車旅団がタムスク近辺から戦場急行しており、早急にソ連軍東岸陣地攻略する必要があった。 前日ソ連軍野砲陣地襲撃し大戦果を挙げていた戦車第3連隊は、翌3日日中ソ連軍陣地正面攻撃をかけた。途中で遭遇した装甲車隊を殲滅し、反撃してきたBT-5装甲車20輌との戦車戦で、2輌の八九式中戦車失いながら3輌のBT-5撃破し撃退したが、実際に交戦してみると、日本軍側の予想以上にソ連軍戦車性能がよく、ソ連軍戦車砲射程長く、また遠距離から日本軍戦車砲塔装甲板易々と貫通することに衝撃受けている。やがて防衛線に近づくと、巧みに擬装された対戦車砲激し砲撃浴び損害増加していった。また陣前に張られピアノ線鉄条網履帯絡めとられた戦車行動不能となったが、そこを戦車対戦車砲狙い撃たれ連隊長吉丸大佐搭乗する九七式中戦車撃破され、吉丸戦死したソ連軍戦車加わった集中砲火の中で、日本軍戦車次々と命中弾を浴びたが、日本軍戦車多くディーゼルエンジンであり、命中弾があっても容易に炎上せず、装甲は薄いながら予想外打たれ強さ窮地中でも善戦しソ連軍戦車32輌と装甲車35輌を撃破したが、日本軍13輌の戦車と5輌の装甲車撃破され、撤退余儀なくされた。防衛していたソ連連隊指揮官は初の大規模な日本軍戦車攻撃撃退し司令部喜びのあまり「日本戦車食い止めました、奴ら次々燃え上がってます。ウラー歳)」と興奮した報告行っている。この戦闘は後に「ピアノ線悪夢」と呼ばれることとなった3日撃破された日本軍戦車多く回収され後日修理され部隊復帰したが、4日時点では戦車第3連隊戦闘力喪失しており、第4連隊のみとなった日本軍戦車部隊攻勢取れず逆に増援到着したソ連軍戦車装甲車部隊執拗な反撃を受けることとなった4日午前には戦車装甲車19輌、対戦車砲数門と歩兵500名のソ連軍攻撃してきたが、戦車第4連隊これまでの戦訓活かし装甲弱さを補うため、砲塔のみを丘の稜線上に出して砲撃加えた乗員練度日本軍圧倒的に上回っており数も主砲威力も勝るソ連軍戦車次々と命中弾を与え装甲車2輌と対戦車砲数門を撃破し撃退している。日本軍の損害八九式中戦車1輌の損傷のみであった午後8時に戦車5輌と歩兵攻撃対し2輌の戦車撃破し撃退すると、午後9時には戦車第4連隊総力でハイラースティーン(ホルステン)川河谷攻撃しソ連軍戦車4輌を撃破している。 翌5日執拗なソ連軍混成部隊攻撃何度も撃退したが、6日になるとさらに数を増したソ連軍から、夜明け直前から断続的に猛攻加えられた。それまで激闘戦車第4連隊は、八九式中戦車4輌、九五式軽戦車20輌、94軽装甲車4輌まで戦力減っており、ソ連軍から鹵獲した対戦車砲まで戦闘につぎ込んでソ連軍攻撃がある度に数輌の戦車装甲車撃破し撃退し続けたが、第4連隊損害大きく八九式中戦車全滅九五式軽戦車も5輌が撃破もしくは損傷し戦闘力著しく損なわれた。その状況見た安岡支隊長から、6日午後4時に「後方支援部隊の位置まで転進し以後行動まで準備せよ」との命令下り連隊長玉田命令通り転進し今後出撃備えこととしたが、7月9日には戦車の完全喪失が30輌に達したことを知った関東軍が、このままでは虎の子戦車部隊壊滅する懸念し7月10日をもって戦車支隊解散すること」との両連隊対す引き揚げ命じた小松原安岡はこの命令不服とし、現地首脳関東軍司令部ひと悶着起こったが、ノモンハンでの日本軍戦車隊戦績はここで終局迎えることとなった戦車第3連隊343名の兵員の内、吉丸連隊長を含む47名が戦死し戦車15輌を喪失戦車第4連隊561名の内28戦死し戦車15喪失し戦場を後にした。

※この「ハルハ河東岸両軍戦車隊の戦い」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「ハルハ河東岸両軍戦車隊の戦い」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。

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