ハルハ部の台頭とは? わかりやすく解説

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ハルハ部の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:52 UTC 版)

モンゴルの歴史」の記事における「ハルハ部の台頭」の解説

詳細は「ハルハ」を参照 ハルハ部ダヤン・ハーン末子ゲレセンジェ領する部族で、初め高原東側遊牧する部族であったが、トメト部アルタン・ハーンのオイラト征伐引き継ぐとその領地西へ広げいわゆる外モンゴル」の原形となったトメト部アルタン・ハーン死後モンゴルでは各部ハーン誕生したが、ハルハ部においても同様で、ハルハ部最初にハーン位就いたのがアバダイ・ハーンである。彼は1585年仏教寺院エルデニ・ジョーカラコルムの地に建立し1586年には巡錫中のダライ・ラマ3世謁見し、「ノムン・イェケ・オチル・ハーン(法の大金剛王)」の称号賜った彼の子孫が後にハルハ左翼のトシェート・ハーン家となる。アバダイ・ハーンの死後オイラト征伐引き継いだのはライフル・ハーンであり、彼の子孫が後にハルハ右翼のジャサクト・ハーン家となる。また、この当時ロシア帝国シベリア進出しており、モンゴル初めロシア接触したのが、ウバシ・ホンタイジであった。彼はアルタン・ハーン名乗り、しきりにロシア使節連絡取り合い、ジャサクト・ハーンの副王ホンタイジ)の立場にあったにもかかわらず大きな勢力持った。彼は1623年に四(ドルベンオイラト連合軍殺されるが、彼の子孫はしばらくアルタン・ハーン称号使い続けたモンゴルとオイラト元朝北方退却してから仇敵同士であったが、チャハル部始めとした「内モンゴル」諸部が清朝の支配下に入ったため、1640年にジャサクト・ハーンの提唱により、モンゴル・オイラト会議開催された。しかし一方でハルハ領主たちは清朝とも友好関係築き北方から迫るロシア帝国要塞セレンギンスクやウジンスクを攻撃した1662年アルタン・ハーンであるエリンチンがジャサクト・ハーンであるワンシュクを殺害したことで、ハルハ部内紛始まりオイラトジューンガル部も巻き込んだために、ジューンガル部長ガルダン・ハーン侵入招いたガルダン・ハーンモンゴル高原席捲したため数十ハルハ部人々内モンゴル逃れて清朝康熙帝臣従誓い康熙帝親征によってガルダン・ハーン高原から追い出すことに成功した。これにより、ハルハ部領する高原北部清朝版図となり、「外藩蒙古」となる。

※この「ハルハ部の台頭」の解説は、「モンゴルの歴史」の解説の一部です。
「ハルハ部の台頭」を含む「モンゴルの歴史」の記事については、「モンゴルの歴史」の概要を参照ください。

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