ハルハの内紛、ガルダンの標的に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/12 05:17 UTC 版)
「ジェプツンタンパ1世」の記事における「ハルハの内紛、ガルダンの標的に」の解説
ハルハ3部のうち最も西に位置するジャサクト・ハン部では、1662年より1667年にかけて内紛が生じ、多数の遊牧民が東隣りのトゥシェート・ハン部に避難した。内紛が収束したのち、ジャサクト・ハン部は避難した遊牧民の返還を求めたが、トゥシェート・ハン部は応じず、そのため今度はジャサクト・ハン部とトゥシェート・ハン部の間が険悪となった。 1680年半ばに至り、清朝の康熙帝、チベットのダライ・ラマ、オイラトの盟主でジュンガル部の首長ガルダンらが仲介し、ジャサクト・ハン部とトゥシェート・ハン部の講和をはかるフレーンビルチェール会盟が1686年に開催された。この際、ジェプツンタンパ1世がダライ・ラマの名代としてこの会盟に派遣されたガンデン・ティパと同じ高さの座にすわった件について、ガルダンの激しい怒りを招く。 ガルダンは、エンサ・トゥルクの転生者としてチベットのラサにのぼり、出家してダライ・ラマ5世に師事していたことがあった。ガルダンにとってジェプツンタンパ1世は自分の前世の弟子にすぎず、それがダライ・ラマの名代と台頭に振る舞ったことは、師たるダライ・ラマを侮辱したと受け取ったのである。 フレーンビルチェール会盟が破れ、1687年、ジェプツンタンパ1世の兄であるトゥシェート・ハン=チャグンドルジは、ガルダンに救援を求めようとしたジャサクト・ハン=シラを追跡して殺害、救援にかけつけたガルダンの援軍を破り、指揮官だったガルダンの弟ドルジジャプも戦死させた。 翌1688年、ガルダンは報復として、オイラト軍を率いてハルハに侵攻するが、弟ドルジジャプ殺害の下手人であるトゥシェート・ハンのチャグンドルジと、ダライ・ラマの名代に無礼をはたらいたジェプツンタンパ1世の引き渡し要求を、戦争目的として掲げた。 ジェプツンタンパ1世は兄チャグンドルジの妻子をともない、東隣のチェチェン・ハン部の領内に避難したが、ガルダン軍の一部がチェチェン・ハン領内に侵入してきたので、さらに清朝の勢力圏である南モンゴルのスニト部の境界まで逃れ、清朝の保護を求めた。ジェプツンタンパの兄チャグンドルジはトゥシェート・ハン部の軍勢を率いて同年9月、オロゴイ・ノールの地でガルダンに決戦を挑んだが敗北、ハルハ左翼(トゥシェート・ハン部、チェチェン・ハン部)の人々はジェプツンタンパ1世を追って清朝の領内に逃げ込み、清朝の保護を求めた。1690年、ガルダンはトゥシェート・ハン=チャグンドルジとジェプツンタンパ1世の引き渡しを清朝の康煕帝に求めたが康煕帝は拒否、ガルダン軍は清朝勢力圏の南モンゴルに侵入、ウランプトンで清朝軍と交戦したのち、ハルハに引き上げた。翌1691年、ハルハ諸侯が清朝への服従を誓うドロンノール会盟が開催され、ジェプツンタンパ1世もこれに参加した。
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