テレビへの進出
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「テレビへの進出」の解説
1955年、ヒッチコックはワッサーマンから自身のテレビシリーズを手がけることを勧められ、『知りすぎていた男』の撮影完了後にCBSとの間で30分のテレビシリーズ『ヒッチコック劇場』を作り、1エピソードにつき12万9000ドルのギャラを受け取るという契約を結んだ。ヒッチコックはジョーン・ハリソンとシリーズを作るための製作会社シャムリー・プロダクションを設立し、2人ですべてのエピソードの原作と主題を選定した。製作総指揮は元秘書でいくつかの作品の脚本に参加したハリソンが担当し、ヒッチコックは製作と監修を担当しながら、毎回番組の前後で口上を述べるホスト役として出演した。『ヒッチコック劇場』は1955年10月2日に放送開始し、7年間にわたり放送されたあと、1962年から1965年までは1時間枠の『ヒッチコック・サスペンス』として放送された。ヒッチコックはこれらのシリーズで合わせて18話のエピソードを演出した。 『ヒッチコック劇場』は非常に収益性が高く、放送当初から最も人気のある番組のひとつとなった。ヒッチコックもホスト役での出演で認知度を高め、その名を最もポピュラーなものにした。番組のタイトルシークエンスは、シャルル・グノー作曲の「操り人形の葬送行進曲」をテーマ曲に、ヒッチコック自身の手描きによる線画の自画像に横顔のシルエットがフレームインしてきておさまるという趣向で、そのあとに始まるヒッチコックの口上はユーモアにあふれ、ポーカーフェイスで飄々とした語り口で喋るのが特徴的だった。 ヒッチコックはテレビでの成功を受けて、自身の名前を使用した短編小説集をいくつか刊行した。その中には『テレビで演出することができなかった物語』『母親が私に語らなかった物語』というタイトルのものが含まれていた。これらの本はヒッチコック責任編集の名目で刊行されたが、自身の署名による序文は別人が代作しており、ヒッチコックは名前の使用だけで印税を受け取った。また、ヒッチコックは1956年にHSD出版社から刊行された犯罪と探偵小説専門の月刊雑誌『アルフレッド・ヒッチコック・ミステリー・マガジン(英語版)(AHMM)』にも自身の名前を使うことを許可した。ヒッチコックの本の外国語版は年間最大10万ドルの収入をもたらしたが、さらに映画の興行的成功やテレビ契約などでも大きな利益を獲得し、1956年のヒッチコックの収入は400万ドルを超えた。 ヒッチコックの次の監督映画は『間違えられた男』(1956年12月公開)である。この作品は過去にワーナー・ブラザースと交わしていた、同社との契約終了後にギャラを貰わずに1本映画を監督するという約束を果たすために作った作品である。それはマクスウェル・アンダーソンが1953年に『ライフ』誌に掲載した実話を基にしており、ナイトクラブのミュージシャン(ヘンリー・フォンダ)が警察の軽率な判断によって強盗犯にでっちあげられて逮捕され、裁判にかけられる姿を描いている。撮影は1956年3月から6月の間に行われたが、ヒッチコックは実話通りに物語を展開するため、マンハッタンなど実際に事件が起きた場所でロケ撮影を行い、ドキュメンタリー・タッチのモノクロ作品にすることでリアリティを高めた。しかし、その作風はヒッチコック作品としては異色なものであり、従来の作品に見られたユーモアや独特のスタイルに欠けていたためにあまり評価されなかった。その完成後の1956年夏には、アフリカを舞台にしたローレンス・ヴァン・デル・ポストの小説『フラミンゴの羽根』の映画化を企画し、南アフリカで撮影場所の視察をしたが、製作費や原住民のエキストラの調達などで問題が生じたため企画を放棄した。 1957年1月、ヒッチコックは長年抱えていたヘルニアの悪化で手術を受けた。3月には今度は胆石の痛みに苦しみ、その除去手術を受けた。体調が回復すると、1956年後半から次回作に企画していたボワロー=ナルスジャックのミステリー小説『死者の中から(フランス語版)』が原作の『めまい』をパラマウント・ピクチャーズで製作し、9月から12月の間にスタジオと北カリフォルニアのロケで撮影を行った。物語は高所恐怖症で警察を辞めた元刑事(ステュアート)が主人公で、自殺を企てた友人の妻(キム・ノヴァク)を救ったのがきっかけで彼女に夢中となるが、その執着は悲劇につながる。この作品は現代では古典的作品に位置付けられているが、1958年の公開当時は興行的に成功せず、また賛辞の批評も少なく、『バラエティ』誌の批評家には「テンポが遅すぎて長すぎる」と評された。 2012年に発表されたイギリスの映画誌『サイト・アンド・サウンド(英語版)』による批評家の投票では、史上最高の映画に選出された。 ヒッチコックは『めまい』の次に作る映画として、ハモンド・イネス(英語版)の小説『メリー・ディア号の遭難(英語版)』の映画化を企画し、そのためにMGMと契約を結んだ。ヒッチコックはアーネスト・レーマンと仕事に取り組んだが、主題が扱いにくくて脚本作りがうまくいかず、レーマンにその代わりに「ヒッチコック映画の決定版をつくりたい」「ラシュモア山の大統領たちの顔の上で大追跡場面を撮りたい」と言ったことからオリジナル脚本の『北北西に進路を取れ』を作ることになり、レーマンは『めまい』のプリプロダクション中の1958年8月から脚本に取り組み始めた。この作品はスパイの陰謀に巻き込まれ、全米を転々としながら犯してもいない殺人の容疑を晴らすために奮闘する広告マン(グラント)が主人公のスパイ・スリラーで、構想通りにアメリカ時代のヒッチコック作品を総括するような作品となった。撮影は同年8月に開始し、翌1959年初めには編集作業に入った。MGMの重役は136分に及ぶ完成版の上映時間が長すぎるとしてカットを要求したが、ヒッチコックは契約で作品の最終決定権を保証されていたため、それを拒否することができた。1959年8月のラジオシティ・ミュージックホールでの初公開は成功し、公開から2週間で40万ドルを超える興行収入を記録した。
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