テレビへの進出とは? わかりやすく解説

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テレビへの進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:53 UTC 版)

アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「テレビへの進出」の解説

1955年ヒッチコックワッサーマンから自身テレビシリーズ手がけることを勧められ、『知りすぎていた男』の撮影完了後にCBSとの間で30分のテレビシリーズヒッチコック劇場』を作り、1エピソードにつき129000ドルギャラ受け取るという契約結んだヒッチコックジョーン・ハリソンシリーズ作るための製作会社シャムリー・プロダクションを設立し2人すべてのエピソード原作主題選定した製作総指揮元秘書いくつかの作品脚本参加したハリソン担当しヒッチコックは製作と監修担当しながら、毎回番組前後口上述べホスト役として出演した。『ヒッチコック劇場』は1955年10月2日放送開始し、7年間にわたり放送されたあと、1962年から1965年までは1時間の『ヒッチコック・サスペンス』として放送された。ヒッチコックはこれらのシリーズ合わせて18話のエピソード演出した。 『ヒッチコック劇場』は非常に収益性高く放送当初から最も人気のある番組のひとつとなったヒッチコックホスト役での出演認知度高め、その名を最もポピュラーなものにした。番組タイトルシークエンスは、シャルル・グノー作曲の「操り人形の葬送行進曲」をテーマ曲に、ヒッチコック自身の手描きによる線画自画像横顔シルエットフレームインしてきておさまるという趣向で、そのあとに始まるヒッチコック口上ユーモアにあふれ、ポーカーフェイス飄々とした語り口で喋るのが特徴的だった。 ヒッチコックテレビで成功受けて自身の名前を使用した短編小説集いくつか刊行した。その中にはテレビで演出することができなかった物語』『母親が私に語らなかった物語』というタイトルのものが含まれていた。これらの本はヒッチコック責任編集名目刊行されたが、自身署名による序文別人代作しており、ヒッチコックは名前の使用だけで印税受け取ったまた、ヒッチコック1956年HSD出版社から刊行され犯罪探偵小説専門月刊雑誌『アルフレッド・ヒッチコック・ミステリー・マガジン(英語版)(AHMM)』にも自身の名前を使うことを許可したヒッチコック本の外国語版年間最大10万ドル収入もたらしたが、さらに映画の興行成功テレビ契約などでも大きな利益獲得し1956年ヒッチコック収入400ドル超えたヒッチコック次の監督映画は『間違えられた男』(1956年12月公開)である。この作品過去ワーナー・ブラザース交わしていた、同社との契約終了後にギャラを貰わずに1本映画監督するという約束を果たすために作った作品である。それはマクスウェル・アンダーソン1953年に『ライフ』誌に掲載した実話を基にしており、ナイトクラブミュージシャンヘンリー・フォンダ)が警察軽率な判断によって強盗犯でっちあげられて逮捕され裁判かけられる姿を描いている。撮影1956年3月から6月の間に行われたが、ヒッチコック実話通り物語展開するため、マンハッタンなど実際に事件起きた場所でロケ撮影行い、ドキュメンタリー・タッチのモノクロ作品にすることでリアリティ高めた。しかし、その作風ヒッチコック作品としては異色なものであり、従来作品見られユーモアや独特のスタイル欠けていたためにあまり評価されなかった。その完成後の1956年夏には、アフリカ舞台にしたローレンス・ヴァン・デル・ポスト小説フラミンゴ羽根』の映画化企画し南アフリカ撮影場所視察をしたが、製作費や原住民エキストラ調達などで問題生じたため企画放棄した1957年1月ヒッチコック長年抱えていたヘルニア悪化手術受けた3月には今度胆石痛み苦しみ、その除去手術受けた体調回復すると、1956年後半から次回作に企画していたボワロー=ナルスジャックミステリー小説死者の中から(フランス語版)』が原作の『めまい』をパラマウント・ピクチャーズ製作し9月から12月の間にスタジオ北カリフォルニアロケ撮影行った物語高所恐怖症警察辞めた刑事ステュアート)が主人公で、自殺企てた友人の妻(キム・ノヴァク)を救ったのがきっかけで彼女に夢中となるが、その執着悲劇につながる。この作品現代では古典的作品位置付けられているが、1958年公開当時興行的に成功せず、また賛辞批評少なく、『バラエティ』誌の批評家には「テンポが遅すぎて長すぎる」と評された。 2012年発表されイギリスの映画誌『サイト・アンド・サウンド(英語版)』による批評家投票では、史上最高の映画選出された。 ヒッチコックは『めまい』の次に作る映画として、ハモンド・イネス(英語版)の小説『メリー・ディア号の遭難英語版)』の映画化企画し、そのためにMGM契約結んだヒッチコックアーネスト・レーマン仕事取り組んだが、主題扱いにくくて脚本作りうまくいかず、レーマンその代わりに「ヒッチコック映画決定版つくりたい」「ラシュモア山大統領たちの顔の上大追跡場面撮りたいと言ったことからオリジナル脚本『北北西に進路を取れ』作ることになり、レーマンは『めまい』のプリプロダクション中の1958年8月から脚本取り組み始めた。この作品スパイ陰謀巻き込まれ全米転々としながら犯してもいない殺人容疑晴らすために奮闘する広告マングラント)が主人公のスパイ・スリラーで、構想通りアメリカ時代ヒッチコック作品総括するような作品となった撮影同年8月開始し、翌1959年初めに編集作業入ったMGM重役136分に及ぶ完成版の上時間が長すぎるとしてカット要求したが、ヒッチコック契約作品最終決定権保証されていたため、それを拒否することができた。1959年8月ラジオシティ・ミュージックホールでの初公開成功し公開から2週間40ドル超える興行収入記録した

※この「テレビへの進出」の解説は、「アルフレッド・ヒッチコック」の解説の一部です。
「テレビへの進出」を含む「アルフレッド・ヒッチコック」の記事については、「アルフレッド・ヒッチコック」の概要を参照ください。

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