テレビ契約
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「1965年のメジャーリーグベースボール」の記事における「テレビ契約」の解説
1961年にスポーツ放送法が成立し、ワールドシリーズとオールスターを除いて各球団が個別に地元のテレビ局と放送契約をしていたのが、メジャーリーグが一括してテレビ局(三大ネットワーク)と独占契約を結ぶことが可能となった。それまでは球団別に主催ゲームの全国放送に取り組んでいたのでヤンキースのような人気球団はいつも全国放送されるが、余り人気の無い球団は全米ネットワークで放送されることも無く、球団ごとに収入格差を生じていた。1962年にメジャーリーグはCBSと最初の3年契約を結んでも全国放送されるゲームが人気球団に偏り、そして全国放送に登場した回数に応じて支払いを受けることが規定されたため、1964年にCBSがニューヨーク・ヤンキースのオーナーとなったことから物議を醸した。これではヤンキースが全米ネットのテレビ放映権料の約三分の二を受け取っており、それがCBSに入ることになって自分で自分に支払う形になるからである。 そこでリーグ内で統一した方針のもとにテレビ局と一括契約をしてテレビ放送の収入を公平に配分することを望む声が多くなり、ヤンキースとフィリーズを除く18球団が、三大ネットワークの一つであるABCと3年契約を結び、この年から全米ネットでABCは毎週土曜日と別の曜日とで週2回、独立記念日と労働記念日に東部と西部でそれぞれ別々に1試合を系列175局で放送し、試合をしている2都市以外には制限を加えず、また放送しているその試合の主催球団が別に地元テレビ局と放送契約して地元だけ放送してもよいということになった。放送権料は年間570万ドルで複数年契約であった。しかしABCは予想したほどには視聴率が上がらなかったので1年限りで契約を打ち切った。そこでメジャーリーグは翌年NBCと3ヵ年契約を結び、これにワールドシリーズとオールスターの放送契約を加えて年間総額3,060万ドルに上った。ワールドシリーズとオールスターの放送権料は1966年370万ドル、1967年610万ドル、1968年650万ドルという契約内容であった。これはその先にさらに増額が見込まれる金額であった。 テレビ局と球団との関係は、当初は必ずしも良好なものではなかった。無制限なテレビ中継はやがて観客減に繋がり、球団がダメージを受けることが少なからずあった。ミルウォーキー・ブレーブスは、ボストン時代の1951年から1954年まで地元のテレビ局とテレビ放映権を総額4万ドルで契約したが、1948年にリーグ優勝した時に150万人に達していた観客動員数が1952年には28万1,278人に落ち込み、オーナーのルー・ペリーニがミルウォーキーに本拠地を移転した後は、テレビ放送を一切認めなかった。全米の野球ファンがハンク・アーロン、エディ・マシューズ、ウォーレン・スパーンをテレビで見ることが出来たのは1957年と1958年のワールドシリーズと毎年のオールスターゲームだけであった。しかし1960年代になると状況は変わっていった。1965年に新しくブレーブスのオーナーとなった実業家グループはアトランタに移転することを決めた。移転の理由は必ずしも観客減だけでなく、ミルウォーキーがマスメディアのマーケットとしては小さく、この年にブレーブスが得た放送収入は52万5,000ドルで、アトランタに移るとテレビ・ラジオの放映権料で150万ドルの提示を地元から受けていたことが大きく、ブレーブスの広報担当者は「第一にテレビが原因で南へ移動した」と述べていた。10年前にオーナーが反対しテレビ中継を毛嫌いした時代とは全く様変わりして、テレビ中継から得られる放映権料が莫大な金額になって、やがて本拠地の移転にも影響する時代に入っていった。
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