グランディ決議とは? わかりやすく解説

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グランディ決議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/06 15:34 UTC 版)

グランディ決議(グランディけつぎ、Ordine del giorno Grandi)とは、1943年7月25日、当時のイタリアの最高諮問機関であるファシズム大評議会において採択された、当時のイタリア王国の首相であるベニート・ムッソリーニに対する首相退任要求決議である。

名称は、決議案を草案し、提出したファシズム大評議会の構成員であったディーノ・グランディに由来する。

当時のイタリア王国における首相を任免する権限はイタリア国王にあり、この決議は法的に非拘束性のものであったが、当時のイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、この決議を支持し、ムッソリーニを首相から解任、逮捕した。

背景

当時のイタリア王国の首相であるベニート・ムッソリーニの命令により、1940年9月7日、北アフリカにおいてエジプトの占領を目指して当時イタリアの植民地であったリビアから進撃を開始、同年10月28日には、それまでに保護国としたアルバニアからギリシャへの進撃を開始したイタリアであったが、いずれも緒戦から苦戦を続け、同盟国であるナチス・ドイツからの援軍によって戦線を維持している状況であった。

その後、ギリシャでは抵抗運動等で行き詰まり、1943年5月には北アフリカにおいてもカセリーヌ峠の戦いでの局地的な勝利以降は追い詰められていき、北アフリカでの最後の根城としたチュニジアも、トーチ作戦モロッコアルジェリアから上陸、進撃してきたアメリカ軍エル・アラメインの戦い以降、エジプトからリビアを通って進撃してきたイギリス軍によって東西から挟み撃ちにされる事態に至ったため、共同で戦ってきたドイツ軍とともに北アフリカから撤退、撤退に間に合わなかった枢軸軍連合軍に降伏した。そのような中、敗北続きによる国内における厭戦気分の蔓延によって士気の低下を感じ取っていた当時のイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、ムッソリーニを首相の座から引きずり下ろすことを考えるようになる。

そして、北アフリカを完全に制圧した連合軍が、1943年7月10日シチリア島攻略を目的とするハスキー作戦を決行したことによって、連合軍によるイタリア本土上陸の懸念が現実的なものとなり、王国の存続を危惧し、戦争の遂行に絶望的なものを感じ取ったエマヌエーレ国王は、ムッソリーニを首相の座から引きずり下ろすことを決意した。

経過

決議案を提出するまで

ムッソリーニを首相の座から引きずり下ろすことを決意したエマヌエーレ国王は、ピエトロ・バドリオにムッソリーニの後継として首班指名することについて調整した後、側近とともにムッソリーニを逮捕する計画を作成した。

一方、ファシスト党の内部においても、グランディが主となって、国家の最高諮問機関であるファシズム大評議会を利用し、首相退任要求の決議案を採択する形でムッソリーニを首相の座から追い落とすことを画策していた。

グランディは、ムッソリーニが、その戦争指導によってイタリア王国を全面的な破滅の危機に追い詰めた責任を厳しく問い、統帥権と国家の決定権を国王へ返還し、首相からの退任を求める内容の決議案をまとめるとムッソリーニにファシズム大評議会の開催を要求、1943年7月24日に開催する約束を取り付けた。

その後、ファシズム大評議会開催の約束を取り付けたグランディは、決議案への賛同者を得るべく活動を開始したが、ムッソリーニは妨害しなかった。

大評議会の開催と決議案の提出・表決

大評議会が開催されたヴェネツィア宮殿

1943年7月24日22時、ヴェネツィア宮殿において、1939年の開催を最後に行われていなかったファシズム大評議会が開会された。

ムッソリーニによる演説の後、本件決議案の採択に係る緊急動議がグランディによって提出された。

動議に対する討論によって日が変わり、7月25日2時15分、表決が行われ、以下の表決の詳細に掲げるとおりの結果となった。

表決の詳細

決議案は、賛成19、反対8、棄権1で採択された。( )内は、ファシズム大評議会の構成員としての当時の職位である。なお、ムッソリーニはファシズム大評議会の議長であったため、投票権を有しなかった。

  • 賛成19
チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキイタリア語版(終身評議員)
エミーリオ・デ・ボーノ(終身評議員)
ウンベルト・アルビーニイタリア語版(ファシスト党書記次長)
ディーノ・グランディ下院議長、工業および農業のファシスト組合総連合会長)
トゥッリオ・チャネッティイタリア語版(内務大臣、ファシスト共同体総連合会長)
アルフレード・デ・マルシコイタリア語版(法務大臣)
ガレアッツォ・チャーノ(外務大臣)
ジュゼッペ・ボッタイ(国民教育大臣)
カルルッチョ・パレスキイタリア語版(農林大臣)
エドモンド・ロッソーニイタリア語版(農業担当無任所大臣)
ルイージ・フェデルツォーニ(王立アカデミー会長)
ジョヴァンニ・バレッライタリア語版(イタリア産業総連盟会長)
ルチャーノ・ゴッタルディイタリア語版(鉱業のファシスト連合会長)
アンニオ・ビニャルディイタリア語版(農業のファシスト連合会長)
ディーノ・アルフィエーリイタリア語版(ドイツ駐箚大使)
アルベルト・デ・ステーファニイタリア語版(閣僚経験者)
ジュゼッペ・バスティアニーニイタリア語版(政府首長による指名)
ジャコモ・アチェルボイタリア語版(学識経験者)
ジョヴァンニ・マリネッリイタリア語版
  • 反対8
カルロ・スコルツァイタリア語版(ファシスト党書記長)
エンツォ・エミーリオ・ガルビアーティイタリア語版(国防義勇軍司令官)
アントニーノ・トリンガリ・カサノヴァイタリア語版(国家防衛特別裁判所長)
ロベルト・ファリナッチ(閣僚経験者)
エットレ・フラッターリイタリア語版(政府首長による指名)
カルロ・アルベルト・ビッジーニイタリア語版(学識経験者)
グィード・ブッファリーニ=グィーディイタリア語版
ガエタノ・ポルヴェレッリイタリア語版
  • 棄権1
ジャコモ・スアルドイタリア語版(上院議長)

決議案採択の影響

ドイツ軍によって救出されたムッソリーニ

この決議案の採択は、この場まで生き残って出席した終身議席を有する2人のファシスト四天王の全員が賛成票を投じる等、ファシスト党の内部からムッソリーニを否定するものであり、イタリアにおけるファシズムの崩壊に直結するものとして非常に重要なものとなった。

エマヌエーレ国王は、この決議の採択を受け、1943年7月25日の午後、謁見のために王宮へ赴いたムッソリーニを待ち構える形で首相の解任を申し渡し、動員していたカラビニエリが逮捕した。

逮捕されたムッソリーニの身柄は、ムッソリーニの後継としてエマヌエーレ国王から首班指名を受けたピエトロ・バドリオへ引き渡され、バドリオはムッソリーニを連合国へ引き渡す前提で国内を頻繁に移動させて軟禁することで反体制派による奪還を防ごうとした。

このような中、1943年9月3日、連合軍によるベイタウン作戦をはじめとする一連のイタリア本土上陸作戦が決行され、9月8日にはイタリア王国が連合国に降伏する。

一方、ムッソリーニが逮捕、拘束された時点でイタリア戦線の完全な崩壊を危惧したナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラーの特命によってムッソリーニの救出作戦を計画、調査によって軟禁場所が特定されたため、1943年9月12日ドイツ軍による救出作戦が決行され、ムッソリーニは無傷で救出された。救出されたムッソリーニは、ナチス・ドイツによって傀儡政権であるイタリア社会共和国の首班に据えられ、1945年4月にイタリア社会共和国が崩壊するまでナチス・ドイツとともに連合国及びイタリア王国と戦うことになった。

なお、イタリア社会共和国の政権成立後、ナチス・ドイツの強い要望により、この決議案に賛成票を投じた者に対する捜索が行われ、逮捕、拘束された者は処刑されている。

関連項目


グランディ決議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)

ベニート・ムッソリーニ」の記事における「グランディ決議」の解説

1943年7月24日大評議会開かれるにあたり評議員資格を持つ者の中から28名が召集されヴェネツィア宮の「鸚鵡の間」に集まったヴェネツィア宮には200名の警察部隊と国家義勇軍1個大隊警備任務に就いていたが、ムッソリーニ直属衛兵部隊ローマ空襲対す救助任務送り出されていた。大評議会議長でもあるムッソリーニ緑色染められ国家義勇軍制服を身に着け評議員達も黒シャツ隊式の夏服を纏っていた。部屋中央置かれ議長席の両脇には最古参幹部エミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥PNFにとって最後党書記長となる第8代書記長カルロ・スコルツァ(イタリア語版)らが座り残り26名が順々に席を並べていた。この日、シチリア島中心地パレルモ陥落したとの報告入り出席者達は重苦しい空気会議待っていた。 午後5時14分、ムッソリーニが「両半球図の間」から「鸚鵡の間」に移動して議長席に座ると、スコルツァが『統領敬礼』と呼びかけ全評議員立ち上がってア・ノイ我らがもの!)』と唱和してローマ式敬礼行い評議会開催された。 まず最初にドイツ軍軍事行動についてムッソリーニ所見述べ戦局が「極めて危機的な状態にある」という事実を認めつつも戦争の継続主張した第一次世界大戦におけるカポレットの戦い引き合い出し当時政府単独講和案を跳ね除けローマからシチリア遷都してでも戦い抜く決意固め遂に協商国南部戦線守り抜いたことを例に挙げている。また休戦講和については連合国戦い挑んでいるのは「イタリアであってファシズムではない」と指摘している。グランディ提出予定している決議案も単に状況混乱させるだけのものである一蹴しているが、『合議拘束する』として決議結果には従うとした。 ムッソリーニの後にはかつてのファシスト四天王であるデ・ボーノ元帥チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキイタリア語版議員発言したが、議論影響する発言避けている。元文大臣ジュゼッペ・ボッタイ協商国同じく枢軸国ドイツ)はイタリア十分に支援するとしたムッソリーニ主張退け状況から見て意義のある本土決戦不可能であると主張した。むしろムッソリーニ暗に苦境認めたことは継戦派の幻想打ち砕く大槌」であると述べている。そしてボッタイ次に発言の席に立ったグランディは「サヴォイア家統帥権憲法上の大権掌握」を求め決議案大評議会提出した(グランディ決議)。グランディ基本的に現状国家指導批判する姿勢取ったが、前述通りムッソリーニにとっても有用であるという持論述べている。ムッソリーニ個人への批判行わず全体主義体制構築のために選択され独裁制批判矛先向けたムッソリーニファシズム高潔な理想独裁統制社会という現実の手法によって道を誤ってしまった、というのがグランディ言い分だった。グランディは「かつての貴方に我らムッソリーニに、我々が付き従ったムッソリーニ戻って欲しい」と語り最後にドゥーチェ、我々とあらゆる責任分け合いましょう」という言葉演説終えた次に発言したのは娘婿外務大臣ガレアッツォ・チャーノだった。チャーノもまたムッソリーニ批判することはせず、ドイツ破滅的専横的な戦争計画への批判行った。特に自身締結関与した鋼鉄条約に「1942年まで両国戦争回避する」という条文ドイツ破った時点で、最初から独伊間に外交上の信義などないと指摘した。チャーノは「我々は裏切り者ではない。我々の方こそ裏切られたのだから」と語り同盟破棄についていかなる歴史家否定的評価恐れる必要はないと述べている。一方継戦派・親独派の評議員である元党書記長ロベルト・ファリナッチ王家大権返却することでより団結した指導体制構築するというグランディ提案賛同した。ただし休戦講和取りまとめることを意図していたグランディ違い戦争継続向けてサヴォイア家抱き込むためであった議論真夜中にまで及び、冷房もない宮殿滞在する評議員には明らかに疲れの色が滲んでいた。動議最初賛成したのは10程度だったが、延々と続く議論の中で評議会出席経験がなく議論不慣れな人々へのグランディによる執拗な説得展開され全会一致方向進み始めたムッソリーニ評議員疲労考慮して議論翌日再開する発言すると、グランディ食い下がったために結局は30分の休憩挟んで再開となった覇気欠けムッソリーニ対抗した根回しを行うことはなかったが、その代わり再開され評議会ムッソリーニ国民と党の間の亀裂協調するグランディに「決議通れば党はその亀裂飲み込まれる」と強く批判する演説行った。この演説決議案の意味について評議員達に再考促す結果を齎し、決議賛成に傾いていた一人である書記長スコルツァを翻意させることに成功した。スコルツァはムッソリーニPNF中心としたファシズム体制への回帰主張する新たな動議提出しグランディボッタイらを驚嘆させた。 他に複数評議員賛成取り消しはじめ、グランディ急遽議論切り上げて決議要請したムッソリーニ議決を取るか取らないかの権限すらあったが、支持戻りつつあるにも関わらず議論続けず、スコルツァに命じて決議取らせた議決結果28名中、賛成19名・反対7名・棄権1名となり、サヴォイア家への独裁返上求め決議可決された。ムッソリーニ黙々と書類整理しながら「これでファシズム体制危機迎えた」と発言して席を立ったグランティらに説き伏せられて動議賛成票を入れた中立派の殆どは動議の意味する結果理解できておらず、議案結果周囲尋ねたりムッソリーニ敬礼するなどしている。

※この「グランディ決議」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
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