グランディ決議
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グランディ決議(グランディけつぎ、伊:Ordine del giorno Grandi)とは、1943年7月25日、当時のイタリアの最高諮問機関であるファシズム大評議会において採択された、当時のイタリア王国の首相であるベニート・ムッソリーニに対する首相退任要求決議である。
名称は、決議案を草案し、提出したファシズム大評議会の構成員であったディーノ・グランディに由来する。
当時のイタリア王国における首相を任免する権限はイタリア国王にあり、この決議は法的に非拘束性のものであったが、当時のイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、この決議を支持し、ムッソリーニを首相から解任、逮捕した。
背景
当時のイタリア王国の首相であるベニート・ムッソリーニの命令により、1940年9月7日、北アフリカにおいてエジプトの占領を目指して当時イタリアの植民地であったリビアから進撃を開始、同年10月28日には、それまでに保護国としたアルバニアからギリシャへの進撃を開始したイタリアであったが、いずれも緒戦から苦戦を続け、同盟国であるナチス・ドイツからの援軍によって戦線を維持している状況であった。
その後、ギリシャでは抵抗運動等で行き詰まり、1943年5月には北アフリカにおいてもカセリーヌ峠の戦いでの局地的な勝利以降は追い詰められていき、北アフリカでの最後の根城としたチュニジアも、トーチ作戦でモロッコ、アルジェリアから上陸、進撃してきたアメリカ軍とエル・アラメインの戦い以降、エジプトからリビアを通って進撃してきたイギリス軍によって東西から挟み撃ちにされる事態に至ったため、共同で戦ってきたドイツ軍とともに北アフリカから撤退、撤退に間に合わなかった枢軸軍は連合軍に降伏した。そのような中、敗北続きによる国内における厭戦気分の蔓延によって士気の低下を感じ取っていた当時のイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、ムッソリーニを首相の座から引きずり下ろすことを考えるようになる。
そして、北アフリカを完全に制圧した連合軍が、1943年7月10日、シチリア島攻略を目的とするハスキー作戦を決行したことによって、連合軍によるイタリア本土上陸の懸念が現実的なものとなり、王国の存続を危惧し、戦争の遂行に絶望的なものを感じ取ったエマヌエーレ国王は、ムッソリーニを首相の座から引きずり下ろすことを決意した。
経過
決議案を提出するまで
ムッソリーニを首相の座から引きずり下ろすことを決意したエマヌエーレ国王は、ピエトロ・バドリオにムッソリーニの後継として首班指名することについて調整した後、側近とともにムッソリーニを逮捕する計画を作成した。
一方、ファシスト党の内部においても、グランディが主となって、国家の最高諮問機関であるファシズム大評議会を利用し、首相退任要求の決議案を採択する形でムッソリーニを首相の座から追い落とすことを画策していた。
グランディは、ムッソリーニが、その戦争指導によってイタリア王国を全面的な破滅の危機に追い詰めた責任を厳しく問い、統帥権と国家の決定権を国王へ返還し、首相からの退任を求める内容の決議案をまとめるとムッソリーニにファシズム大評議会の開催を要求、1943年7月24日に開催する約束を取り付けた。
その後、ファシズム大評議会開催の約束を取り付けたグランディは、決議案への賛同者を得るべく活動を開始したが、ムッソリーニは妨害しなかった。
大評議会の開催と決議案の提出・表決

1943年7月24日22時、ヴェネツィア宮殿において、1939年の開催を最後に行われていなかったファシズム大評議会が開会された。
ムッソリーニによる演説の後、本件決議案の採択に係る緊急動議がグランディによって提出された。
動議に対する討論によって日が変わり、7月25日2時15分、表決が行われ、以下の表決の詳細に掲げるとおりの結果となった。
表決の詳細
決議案は、賛成19、反対8、棄権1で採択された。( )内は、ファシズム大評議会の構成員としての当時の職位である。なお、ムッソリーニはファシズム大評議会の議長であったため、投票権を有しなかった。
- 賛成19
- チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(終身評議員)
- エミーリオ・デ・ボーノ(終身評議員)
- ウンベルト・アルビーニ(ファシスト党書記次長)
- ディーノ・グランディ(下院議長、工業および農業のファシスト組合総連合会長)
- トゥッリオ・チャネッティ(内務大臣、ファシスト共同体総連合会長)
- アルフレード・デ・マルシコ(法務大臣)
- ガレアッツォ・チャーノ(外務大臣)
- ジュゼッペ・ボッタイ(国民教育大臣)
- カルルッチョ・パレスキ(農林大臣)
- エドモンド・ロッソーニ(農業担当無任所大臣)
- ルイージ・フェデルツォーニ(王立アカデミー会長)
- ジョヴァンニ・バレッラ(イタリア産業総連盟会長)
- ルチャーノ・ゴッタルディ(鉱業のファシスト連合会長)
- アンニオ・ビニャルディ(農業のファシスト連合会長)
- ディーノ・アルフィエーリ(ドイツ駐箚大使)
- アルベルト・デ・ステーファニ(閣僚経験者)
- ジュゼッペ・バスティアニーニ(政府首長による指名)
- ジャコモ・アチェルボ(学識経験者)
- ジョヴァンニ・マリネッリ
- 反対8
- カルロ・スコルツァ(ファシスト党書記長)
- エンツォ・エミーリオ・ガルビアーティ(国防義勇軍司令官)
- アントニーノ・トリンガリ・カサノヴァ(国家防衛特別裁判所長)
- ロベルト・ファリナッチ(閣僚経験者)
- エットレ・フラッターリ(政府首長による指名)
- カルロ・アルベルト・ビッジーニ(学識経験者)
- グィード・ブッファリーニ=グィーディ
- ガエタノ・ポルヴェレッリ
- 棄権1
- ジャコモ・スアルド(上院議長)
決議案採択の影響

この決議案の採択は、この場まで生き残って出席した終身議席を有する2人のファシスト四天王の全員が賛成票を投じる等、ファシスト党の内部からムッソリーニを否定するものであり、イタリアにおけるファシズムの崩壊に直結するものとして非常に重要なものとなった。
エマヌエーレ国王は、この決議の採択を受け、1943年7月25日の午後、謁見のために王宮へ赴いたムッソリーニを待ち構える形で首相の解任を申し渡し、動員していたカラビニエリが逮捕した。
逮捕されたムッソリーニの身柄は、ムッソリーニの後継としてエマヌエーレ国王から首班指名を受けたピエトロ・バドリオへ引き渡され、バドリオはムッソリーニを連合国へ引き渡す前提で国内を頻繁に移動させて軟禁することで反体制派による奪還を防ごうとした。
このような中、1943年9月3日、連合軍によるベイタウン作戦をはじめとする一連のイタリア本土上陸作戦が決行され、9月8日にはイタリア王国が連合国に降伏する。
一方、ムッソリーニが逮捕、拘束された時点でイタリア戦線の完全な崩壊を危惧したナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラーの特命によってムッソリーニの救出作戦を計画、調査によって軟禁場所が特定されたため、1943年9月12日、ドイツ軍による救出作戦が決行され、ムッソリーニは無傷で救出された。救出されたムッソリーニは、ナチス・ドイツによって傀儡政権であるイタリア社会共和国の首班に据えられ、1945年4月にイタリア社会共和国が崩壊するまでナチス・ドイツとともに連合国及びイタリア王国と戦うことになった。
なお、イタリア社会共和国の政権成立後、ナチス・ドイツの強い要望により、この決議案に賛成票を投じた者に対する捜索が行われ、逮捕、拘束された者は処刑されている。
関連項目
グランディ決議
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「グランディ決議」の解説
1943年7月24日、大評議会が開かれるにあたり、評議員資格を持つ者の中から28名が召集され、ヴェネツィア宮の「鸚鵡の間」に集まった。ヴェネツィア宮には200名の警察部隊と国家義勇軍1個大隊が警備任務に就いていたが、ムッソリーニ直属の衛兵部隊はローマ空襲に対する救助任務に送り出されていた。大評議会議長でもあるムッソリーニは緑色に染められた国家義勇軍の制服を身に着け、評議員達も黒シャツ隊式の夏服を纏っていた。部屋の中央に置かれた議長席の両脇には最古参幹部のエミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥、PNFにとって最後の党書記長となる第8代書記長カルロ・スコルツァ(イタリア語版)らが座り、残りの26名が順々に席を並べていた。この日、シチリア島の中心地パレルモが陥落したとの報告が入り、出席者達は重苦しい空気で会議を待っていた。 午後5時14分、ムッソリーニが「両半球図の間」から「鸚鵡の間」に移動して議長席に座ると、スコルツァが『統領へ敬礼』と呼びかけ、全評議員が立ち上がって『ア・ノイ(我らがもの!)』と唱和してローマ式敬礼を行い、評議会が開催された。 まず最初にドイツ軍の軍事行動についてムッソリーニが所見を述べ、戦局が「極めて危機的な状態にある」という事実を認めつつも戦争の継続を主張した。第一次世界大戦におけるカポレットの戦いを引き合いに出し、当時の政府が単独講和案を跳ね除けてローマからシチリアに遷都してでも戦い抜く決意を固め、遂には協商国の南部戦線を守り抜いたことを例に挙げている。また休戦や講和については連合国が戦いを挑んでいるのは「イタリアであってファシズムではない」と指摘している。グランディが提出を予定している決議案も単に状況を混乱させるだけのものであると一蹴しているが、『合議は拘束する』として決議の結果には従うとした。 ムッソリーニの後にはかつてのファシスト四天王であるデ・ボーノ元帥、チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(イタリア語版)議員が発言したが、議論に影響する発言は避けている。元文化大臣ジュゼッペ・ボッタイは協商国と同じく枢軸国(ドイツ)はイタリアを十分に支援するとしたムッソリーニの主張を退け、状況から見て意義のある本土決戦は不可能であると主張した。むしろムッソリーニが暗に苦境を認めたことは継戦派の幻想を打ち砕く「大槌」であると述べている。そしてボッタイの次に発言の席に立ったグランディは「サヴォイア家に統帥権と憲法上の大権の掌握」を求める決議案を大評議会に提出した(グランディ決議)。グランディは基本的に現状の国家指導を批判する姿勢を取ったが、前述の通りムッソリーニにとっても有用であるという持論も述べている。ムッソリーニ個人への批判は行わず、全体主義体制構築のために選択された独裁制に批判の矛先を向けた。ムッソリーニとファシズムの高潔な理想は独裁と統制社会という現実の手法によって道を誤ってしまった、というのがグランディの言い分だった。グランディは「かつての貴方に、我らのムッソリーニに、我々が付き従ったムッソリーニに戻って欲しい」と語り、最後に「ドゥーチェ、我々とあらゆる責任を分け合いましょう」という言葉で演説を終えた。 次に発言したのは娘婿の外務大臣ガレアッツォ・チャーノだった。チャーノもまたムッソリーニを批判することはせず、ドイツの破滅的で専横的な戦争計画への批判を行った。特に自身も締結に関与した鋼鉄条約に「1942年まで両国は戦争を回避する」という条文をドイツが破った時点で、最初から独伊間に外交上の信義などないと指摘した。チャーノは「我々は裏切り者ではない。我々の方こそ裏切られたのだから」と語り、同盟破棄についていかなる歴史家の否定的評価も恐れる必要はないと述べている。一方、継戦派・親独派の評議員である元党書記長ロベルト・ファリナッチは王家に大権を返却することでより団結した指導体制の構築するというグランディの提案に賛同した。ただし休戦や講和を取りまとめることを意図していたグランディと違い、戦争継続に向けてサヴォイア家を抱き込むためであった。 議論は真夜中にまで及び、冷房もない宮殿に滞在する評議員には明らかに疲れの色が滲んでいた。動議に最初賛成したのは10名程度だったが、延々と続く議論の中で評議会出席経験がなく議論に不慣れな人々へのグランディによる執拗な説得が展開され、全会一致の方向へ進み始めた。ムッソリーニが評議員の疲労を考慮して議論を翌日に再開すると発言すると、グランディが食い下がったために結局は30分の休憩を挟んで再開となった。覇気に欠けるムッソリーニは対抗した根回しを行うことはなかったが、その代わり、再開された評議会でムッソリーニは国民と党の間の亀裂を協調するグランディに「決議が通れば党はその亀裂に飲み込まれる」と強く批判する演説を行った。この演説は決議案の意味について評議員達に再考を促す結果を齎し、決議賛成に傾いていた一人である書記長スコルツァを翻意させることに成功した。スコルツァはムッソリーニとPNFを中心としたファシズム体制への回帰を主張する新たな動議を提出し、グランディやボッタイらを驚嘆させた。 他に複数の評議員が賛成を取り消しはじめ、グランディは急遽議論を切り上げて決議を要請した。ムッソリーニは議決を取るか取らないかの権限すらあったが、支持が戻りつつあるにも関わらず議論を続けず、スコルツァに命じて決議を取らせた。議決の結果は28名中、賛成19名・反対7名・棄権1名となり、サヴォイア家への独裁権返上を求める決議は可決された。ムッソリーニは黙々と書類を整理しながら「これでファシズム体制は危機を迎えた」と発言して席を立った。 グランティらに説き伏せられて動議に賛成票を入れた中立派の殆どは動議の意味する結果が理解できておらず、議案の結果を周囲に尋ねたり、ムッソリーニへ敬礼するなどしている。
※この「グランディ決議」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
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