ムッソリーニ解任
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「ディーノ・グランディ」の記事における「ムッソリーニ解任」の解説
1939年の駐英大使退任後は法相に転じ、ついでファシズム政権下の下院議長に相当する工業および農業のファシスト組合総連合(イタリア語版)会長を務めた。1943年7月24日、ファシズム大評議会で敗北の責任を問いムッソリーニ首相解任動議を提出し、可決された。解任に賛成した他の有力者たちと異なり、グランディはイタリア社会共和国による逮捕を逃れた。
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ムッソリーニ解任
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「グランディ決議」も参照 ヒトラーとの会談を終えた直後、ムッソリーニはファシズム体制指導者を激励するため、久しく開会されていなかったファシズム大評議会(Gran Consiglio del Fascismo)を7月24日に開催するよう指示した。アンブロージョ参謀総長は国王に決断を迫り、参謀総長に国王は次の定例謁見日(7月22日)までに決断し、その次の謁見日(7月26日)の後にムッソリーニを逮捕すると告げた。しかしこの頃アルトゥーロ・リッカルディ(英語版)海軍大将ら親独派グループの動きが活発化したと報告を受けて国王は考慮を決断に移し、ムッソリーニが国王に拝謁した後、カラビニエリ(憲兵)により逮捕する計画を固めた。 この頃、反ムッソリーニ派である「秘密のフロンド」(frondeur、投石器の意味)には、ファシスト党の幹部であるジュゼッペ・ボッタイ文化大臣、ファシスト党のナンバー2であり、ムッソリーニの義理の息子のガレアッツォ・チャーノ外相まで参加していた。グランディやカルロ・スコルツァ(英語版)党書記長、ロベルト・ファリナッチらは政治の直接的な支配権を王に戻すと言う提案「重大事項」(Ordine del giorno)を策定し、賛同者を募った。この情報はムッソリーニの耳にも届いたが、彼は真に受けず、何の対抗手段も執らなかった。 1943年7月24日午後5時、ファシズム大評議会に複数の「重大事項」が提出された。会議は夜半を過ぎても続き、7月25日午前2時に統帥権と独裁権を国王に返還するグランディの提案が多数決で採択された。7月25日にムッソリーニは国王に緊急の拝謁を求めた。その面談で国王はムッソリーニに解任を告げた。王宮から出たムッソリーニは逮捕され、ポンツァ島に監禁された。 後任の首相にはバドリオが任命されたが、これはグランディに約束された内容に反するものであった。グランディは他の偉大な人間性と優秀な能力をもつ人物、エンリコ・カヴィーリャ(英語版)元帥がムッソリーニのあとを継ぐべきであると述べていた。その後クーデター派はムッソリーニが「辞任」し、ロマーニャの自宅に向かったという噂を流し、ムッソリーニ派が政権の奪還に動くのを封じた。噂を聞いた市民がファシスト党員や憲兵を攻撃する事例も現れた。 午後9時30分頃にはドイツでもムッソリーニの「辞職」が察知されるようになり、ヒトラーはバドリオ政権を敵と断定し、エルヴィン・ロンメル元帥をギリシャから呼び戻した。午後10時45分にムッソリーニの辞職とバドリオの首相任命を伝える国王の声明と、バドリオが全権委任を受けたという声明が全国放送された。イタリア全土のローマや各地の街には市民の歓声があふれ、ファシスト党の党員証や黒い制服が川や路地に投げ捨てられた。
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