バドリオ政権下での幽閉
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「バドリオ政権下での幽閉」の解説
1943年7月27日、名目上、ムッソリーニは身辺警護を理由に擬装用の救急車で海軍基地に護送され、そこから輸送艦でティレニア海の島々へ幽閉された。最初に軟禁されたポンツァ島では準備が間に合わず、使われていない無人の古民家が用意された。風呂が使えないなど粗末な建物であったが、監視についた下士官達はムッソリーニに敬意を払い、書物や衣服の差し入れなど軟禁生活を手助けした。数日後により厳重な警備が行われているラ・マッダレーナ島に移動し、そこでは海軍将校用の邸宅が提供されて新聞などを購読することも許可された。激務から中断していた読書や執筆に専念する日々を送り、これまでの国家指導について見つめ直す機会を得て、今後のファシズム運動のあり方について思索を行っている。 幽閉されている間にも外部では政治情勢が混迷を続けていた。バドリオは首相(閣僚評議会議長)ではなくムッソリーニと同じく首席宰相及び国務大臣(イタリア語版)の地位に就任して、国家ファシスト党による独裁に倣った軍部独裁を志向した。その為、バドリオ政権はボノーミらを初めとする議会制民主主義の復権を求める政治家達から積極的な協力を得られなかった。サヴォイア家を筆頭とする王党派が協力している為、共産主義・共和主義の反乱勢力から敵視された点でも同様であった。またバドリオは国家ファシスト党(PNF)とその青年組織リットリオ青年団(英語版)の解散、及びチアーノらファシスト党幹部の資産没収、ファシスト・コーポラティズム議会(イタリア語版)、大評議会、国家特別裁判所の廃止などを行い、ファシスト勢力とも全面的に対立した。ちなみに資産没収の名分は不正蓄財の調査だったが、自身がファシスト政権下で蓄えた膨大な財産は不問とした。 ムッソリーニ解任に激怒したヒトラーがイタリアへの進駐を計画しているとの報告も届いていた。ヒトラーはバドリオを「我らの最も残酷なる敵」と呼び、南仏に続いて北伊への進駐計画「アラリック作戦」の発動を計画していた。アラリック作戦は「イタリアの戦争離脱が決定的になった時」を前提としていたが、平静さを失っていたヒトラーは如何なる犠牲を払っても進駐とバドリオ政権関係者を拘束する様に命じ、そればかりかクーデターに協力したと考えていたカトリック教会の「ならず者共」を捕らえるべくヴァチカン占領も命じている。しかしエルヴィン・ロンメルやケッセルリンクなどイタリア戦線の指揮官達からは準備不足であると反対されてしまい、当面の間はバドリオ政権の動きを注視し、またムッソリーニの軟禁先を調査することを決定した。 最初から支持基盤を欠いた政権であったことに加えてムッソリーニに比べて決断力のないバドリオ個人の政治的資質もあり、枢軸国と連合国との間に挟まれた状況下での休戦交渉は暗礁に乗り上げた。連合国側のアメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルが枢軸国には無条件降伏以外を基本的に認めない姿勢を取ったことも二の足を踏ませる原因になっていた。君主たるエマヌエーレ3世も戦争継続と降伏のどちらを選ぶべきかこの期に及んで悩んでいたが、7月28日になってバドリオに対して休戦交渉の勅命を下した。7月29日、休戦交渉決定の翌日にムッソリーニが六十歳の誕生日を迎えると、沈黙するイタリア政府とは対照的にドイツ政府は公然とムッソリーニの誕生日を祝い、クーデターを承認しない姿勢を明瞭に示した。ヘルマン・ゲーリング国家元帥からは祝電が送られ、ヒトラーからは特別に装丁されたニーチェ全集が手紙を添えて贈られた。
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