ムッソリーニとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 15:39 UTC 版)
「イタロ・バルボ」の記事における「ムッソリーニとの対立」の解説
1933年11月7日、空軍大臣の任期を終えたバルボは北アフリカ軍総司令官に転任した。ムッソリーニはファシスト党の掲げる帝国主義の象徴であるアフリカの植民地の拡大を、優れた事業家として空軍の躍進を導いたバルボに託したのである。バルボの新たな使命は西のツッモからスーダン東部のチャド湖に至る不確定地域の確保で、そこで他の列強国の動きを退けてイタリアの権益を確立する事だった。バルボは着任して直ぐにチベスチ地方を訪問し、イギリスやフランスに比べて比較的有利な状態にあった同地の権益主張を開始した。チャド湖周辺の占領はリビアとカメルーン地方を接続する事に繋がりうる重要な計画だった。 1922年から、かつてドイツ領だったカメルーンはフランス領カメルーンと英領カメルーンという委任統治領になっていた。カメルーンの確保は大西洋に向いた良港の獲得を意味しており、ムッソリーニはイタリアのアフリカにおける植民地帝国の大きな一歩になると考えていた。カメルーン・スエズ・ジブラルタルを合わせて確保できれば、南地中海沿岸部に一大植民地を形成する事が可能だった。故にチャド湖の獲得はアフリカの権益拡大において最初に目指されたのである。1934年1月1日、トリポリタニア、フェザーンなど北アフリカの植民地を糾合して属州リビアが成立、バルボはリビア総督を兼任した。 一方でリビア総督への就任は、政治的後継者を通り越してライバルとなりつつあったバルボにムッソリーニが危機感を抱いて、本土から遠ざけたかった為であるとも噂された。これはバルボが個人主義的で、他の党幹部と協調しない傾向があった事も影響していた。バルボとムッソリーニの対立を前に、ヨーロッパに比べてムッソリーニよりバルボが有名だったアメリカのタイム誌はムッソリーニを「バルボの国の独裁者」と皮肉る記事を掲載している。
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