ムッソリーニの紹介者
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1924年12月、下位はイタリアから帰国した。この頃一時的に国士舘大学の教授と国士舘中学の校長となっている。1924年夏ごろには皇国青年党を設立し、自ら主宰となるなど政治運動にも関わっていたが、資金繰りに行き詰って1927年ごろに解党している。この時期に下位は当時の若松市(現・会津若松市)の市長に対して、「ムッソリーニが白虎隊の事績に感激して記念碑を建立したがっている」という進言をおこなった。これは下位の創作であったが、新聞報道がなされて有力者からの賛助も集まったため、やむなく外務省がムッソリーニに打診し、1928年にイタリアから送られた記念碑が若松市の飯盛山に実際に建立された。その後短期間の訪伊を何度か行った後に、1927年にローマ大学に設置される日本文学講座担当教授となるため、一家でローマに向かったが、結局この講座自体は実現しなった。ローマで下位は研究とローマにおける私設日本大使としての活動を行っていたとされる。 1933年、下位一家は日本に帰国した。下位によるとこの帰国はイタリア首相となっていたムッソリーニによって、日本においてイタリアの紹介を行うよう依頼されたからだという。下位は「あの日からずっと私はムッソリーニのそばにいた。ムッソリーニのところには自由に入ることができた」とムッソリーニとの親密さを語っているが、ムッソリーニ側の資料で下位の名前が出てくるものはほとんど存在しない。 日本に帰国してからの下位は、日本放送協会のイタリア語部長や国際連盟教育映画部日本代表、日伊学会評議員、日本農林新聞社長などを歴任している。また出口王仁三郎と接近し、昭和神聖会の創立にも参加している。さらにイタリアとダンヌンツィオ、そしてムッソリーニとファシズムを紹介する講演活動を頻繁に行った。下位は「始めてムッソリーニを紹介し、フアツショの運動を日本に紹介したのは恐らく私が始めてだと思ってをります(原文ママ)」と誇っていた。1929年にはムッソリーニの主要演説29本を翻訳している。また下位はダンヌンツィオの運動とファシズムを直線的に結び付けており、各運動内の思想別派閥などについてはほとんど触れていないなど、きわめて単純化したものであった。 戦後、下位は枢軸陣営への支持活動により公職追放となった。晩年のインタビューでは、「いわば、人間のすることはすべて無意味だ」と語っている。1954年12月1日に死亡した。
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