ムッソリーニの紹介者とは? わかりやすく解説

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ムッソリーニの紹介者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 22:18 UTC 版)

下位春吉」の記事における「ムッソリーニの紹介者」の解説

1924年12月下位イタリアから帰国したこの頃一時的に国士舘大学教授国士舘中学校長となっている。1924年夏ごろには皇国青年党設立し、自ら主宰となるなど政治運動にも関わっていたが、資金繰り行き詰って1927年ごろに解党している。この時期下位当時若松市(現・会津若松市)の市長に対して、「ムッソリーニ白虎隊事績感激して記念碑建立したがっている」という進言おこなった。これは下位創作であったが、新聞報道なされて有力者からの賛助集まったため、やむなく外務省ムッソリーニ打診し1928年イタリアから送られ記念碑若松市飯盛山実際に建立された。その後短期間の訪伊を何度か行った後に、1927年ローマ大学設置される日本文学講座担当教授となるため、一家ローマ向かったが、結局この講座自体実現しなった。ローマで下位研究ローマにおける私設日本大使としての活動行っていたとされる1933年下位一家日本に帰国した。下位によるとこの帰国イタリア首相となっていたムッソリーニによって、日本においてイタリア紹介を行うよう依頼されたからだという。下位は「あの日からずっと私はムッソリーニのそばにいた。ムッソリーニところに自由に入ることができた」とムッソリーニとの親密さ語っているが、ムッソリーニ側の資料下位の名前が出てくるものはほとんど存在しない日本に帰国してからの下位は、日本放送協会イタリア語部長国際連盟教育映画日本代表日伊学会評議員日本農林新聞社長などを歴任している。また出口王仁三郎接近し昭和神聖会創立にも参加している。さらにイタリアダンヌンツィオ、そしてムッソリーニファシズム紹介する講演活動頻繁に行った下位は「始めてムッソリーニ紹介し、フアツショの運動日本紹介したのは恐らく私が始めてだと思ってをります(原文ママ)」と誇っていた。1929年にはムッソリーニの主要演説29本を翻訳している。また下位はダンヌンツィオ運動ファシズム直線的に結び付けており、各運動内の思想別派閥などについてはほとんど触れていないなど、きわめて単純化したものであった戦後下位枢軸陣営への支持活動により公職追放となった晩年インタビューでは、「いわば、人間のすることはすべて無意味だ」と語っている。1954年12月1日死亡した

※この「ムッソリーニの紹介者」の解説は、「下位春吉」の解説の一部です。
「ムッソリーニの紹介者」を含む「下位春吉」の記事については、「下位春吉」の概要を参照ください。

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