オウム真理教との関わり
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袴谷憲昭は、中沢新一の『虹の階梯 - チベット密教の瞑想修行』(1981年、平河出版社)が、オウム真理教で聖典とも目されていたと述べている。オウムの後継団体Alephの元代表野田成人は、「教団の中では教祖である麻原彰晃の書籍以外は読んではいけないことになっていたが、『虹の階梯』はタネ本として半ば公になっており、教団内にふつうに存在し皆が参照していた」と述べている。中沢自身も、『虹の階梯』が麻原彰晃の座右の書であることに言及している。宗教学者の大田俊寛は、ポアという言葉をオウム真理教に教えたのは、『虹の階梯』であると指摘している。 『週刊ポスト』1989年12月8日号の中沢自身のインタビュー「オウム真理教のどこが悪いのか」では「僕が実際に麻原さんに会った印象でも、彼はウソをついている人じゃないと思った。むしろいまの日本で宗教をやっている人の中で、稀にみる素直な人なんじゃないかな。子供みたいというか、恐ろしいほど捨て身な楽天家の印象ですね」と麻原を持ち上げる自身の談話が掲載された。 中沢は宗教学の立場から新宗教についても論じ、1980年代の末に、自身のチベット仏教の研究からも影響をうけているオウム真理教に関心を示し、発言をしていた。1995年(平成7年)地下鉄サリン事件など一連の事件がオウム真理教による組織的犯行であることが発覚すると、中沢も批判の対象とされた。元オウム真理教幹部・現ひかりの輪の上祐史浩によると、1988年に麻原は、自分の前生のグルであると考えていた、当時のチベット仏教カギュ派の総帥カル・リンポチェと面会した。彼は麻原を高く評価し「偉大な仏教の師」とし、「あなた方のグルに奉仕し、そして彼がするようにといったことは何でもするようにしなさい」と説法したという。上祐は、この麻原への称賛に影響を受けた中沢は週刊誌の取材に対して「カル・リンポチェ師は、神秘的な人であり、簡単にだませる人ではないとして、オウムを肯定する根拠の一つとした」と述べている。 事件後の1997年には、中沢は朝日新聞において、麻原とは2回対談したが「彼は一種の天才的な直観力を持っており、密教の実践については並みの学者より深く正確だった」と評した。1995年8月には、青土社の雑誌「imago」の特集号として「オウム真理教の深層」を責任編集し、自身は、河合隼雄と元信者である高橋英利との鼎談、同じくオウム事件に関して批判を集めていた博物学者の荒俣宏、人類学者で信者だった坂元新之輔の両者との対談、クンダリニー・ヨーガを軸に宗教としてのオウムをとらえた論考「『尊師』のニヒリズム」を寄稿している。1995年4月25日号の雑誌週刊プレイボーイではインタビュー「宗教学者・中沢新一の死」が掲載され、オウム事件への間接的責任について問われると「こんなことにならないよう僕なりにがんばって来たつもりでしたが、努力が足らなかった。だから、<宗教学者・中沢新一>なんてもう終わりにします。そんな奴は死んだのです」と答えている。 以上のように、事件直後には教団に関して多くの発言を残したが、その後は積極的な発言はおこなっていない。その理由について本人は「マスコミの表面に出ている議論は、あの教団がもっているものに触れていない」「あの教団については、未だにわからない部分がある」と語っている。宮崎哲弥は、賛否はともかくオウム真理教を擁護したことで批判を受けながらも筋を通した吉本隆明や山崎哲に比して、中沢の態度は逃げであると評している。事件後、かつて共にニューアカデミズムブームの中心にいた浅田彰は、中沢と対談し「バカが本を誤読して暴走したからといって、本の著者に責任はない」と中沢を擁護した。 事件後、中沢は、自分と同じく強い批判に曝されたショスタコーヴィチやマルティン・ハイデッガーの伝記を熟読し、深く傷つきながらも作品の中にその傷をあらわさない彼らの姿勢に学んだ、と述べている。 福岡の講演会で坂本弁護士一家失踪事件に関し「創価学会をはじめとする宗教団体への調査の結果、どの宗教もオウムの仕業じゃないといった。別の組織によって八丈島へ連れて行かれ、埋められた」と聴衆に向かって発言。講演後に新聞記者にそのことについて聞かれて「嘘に決まってるじゃない」と一言。「自分の立場を有利に進めていくためには、どんなことでも言ってしまうわけよ。あの人は学会の植木等だよ、あのくらい調子よけりゃ、許せる部分もあるけどね」と小林よしのりに評される(別冊宝島229でのテリー伊藤との対談「お笑いオウム真理教」にて)。中沢の発言については、ノンフィクション作家の岩上安身も、中沢は直接話したことと正反対のことをメディアで発言しており、言うことがころころ変わると評している。 大田俊寛は、中沢は自らが関わったオウム事件について総括していないと述べている。また中沢は、チベット学者や仏教学者から批判にも応じていない。宮崎哲弥は、オウム真理教の教義が佐保田鶴治のヨーガ哲学と中沢の『虹の階梯』に拠るところが大きく、ともに新宗教の阿含宗系の出版社が版元であることに留意を促し、中沢は、オウム思想の母体を造った責任も含めて「ゾクチェンの毒、如来蔵思想の危険性を自ら認めるべき」であると述べ、こういった総括を行わない中沢の言説を日本の知的良識を代表する朝日、岩波といった出版社が引き受けている現状に疑問を呈している。 大田俊寛は、中沢は学問的フレームワークを十分に時間をかけて習得した形跡がなく、ニューアカ・ブームの波に乗って著名な知識人となり、非常に無自覚な仕方でオウムの運動を後押しており、オウム事件を総括しないのではなく、できないのではないかと述べている。そして事件当時、中沢は「方向性を見失ったオウム信者たちを今後は自分が引き受け、彼らに生き方の指針を示す」といったことを発言したが、研究者という立場にありながら軽々しく事態に介入し、グルの代わりに生き方を示すようなメッセージを軽薄に発してしまったことには大きな問題があったと厳しく批判し、「宗教学者として、近代における宗教の在り方や問題をどのように捉えるかという、学問的フレームワークを持っているべきだった」と評している。 仏教学者の福田孝雄は、1992年の朝日新聞の中沢の記事について、麻原との2度の対談で評価を下しているが、2回程度の対談で「そのすべての能力や宗教的境地の深浅の程度が、はたして分かるものだろうか」、そもそもそういった判断ができるほど密教学者や修行者と人間的交流があったのかと疑問を呈し、宗教学の客観的・実証的立場を忘れ、主観的価値判断に基づく評価を普遍化しようという目的による発言としか思えないと批判している。また同記事で、中沢は麻原について「結局、彼は宗教を利用した革命家だったのではないか」と述べているが、そうであるなら最初から革命家であって真正の宗教者ではないと指摘している。 批評家・芸術諸ジャンルの表現論研究者の佐々木敦は、オウム真理教の暴発に中沢の思想が本質的に関与したとは思わないと述べ、中沢は自己批判する必要もその責任もないとしている。ただし、中沢が「責任がない」 ことを説明する 「責任」 を果たしたかというと、微妙な気がすると述べている。 かつて文藝春秋社の社長を務めていた松井清人は自身の記事で「一連の事件で麻原が逮捕されたあと、島田裕巳氏のように過ちを認め、自分なりに総括を行った学者もいる。だが中沢氏には、反省のかけらもないようだ」と中沢を非難している。
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