如来蔵思想とは? わかりやすく解説

真如

(如来蔵思想 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 03:22 UTC 版)

真如(しんにょ、, : tathatā: de bzhin nyid)は、原義では「あるがままであること」「そのような状態」という意味であり、物事の真理・実際のあり方 (the way things are in truth or actuality)[1]、無名で無個性な現実 (nameless and characterless reality)[2]のことである。


  1. ^ a b Keown, Damien (September 4, 2008) [August 26, 2004]. A Dictionary of Buddhism. Oxford Paperback Reference (Illustrated ed.). OUP. p. 296. ASIN 0192800620. ISBN 978-0192800626. NCID BA71231448. OCLC 59264404 
  2. ^ Suchness Definition & Meaning”. Merriam-Webster.com Dictionary. Merriam-Webster. 2023年8月21日閲覧。


「真如」の続きの解説一覧

如来蔵思想

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縁起」の記事における「如来蔵思想」の解説

現象世界を、真如如来蔵)が縁に従って現れたものと見る真如縁起如来縁起)が如来思想見られる

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如来蔵思想

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煩悩」の記事における「如来蔵思想」の解説

如来蔵思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心に偶発的に付着したのである説く客塵煩悩きゃくじんぼんのう))。この煩悩智慧によって断滅し、衆生が本来もっている仏性明らかにすること、すなわち煩悩束縛脱して智慧を得ることが、大乗仏教求め悟りほかならない菩薩四弘誓願しぐぜいがん)に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩断ずることが大乗仏教基本思想であることを示す。 人間所詮煩悩から逃れられというところに観念し煩悩あるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提考えが、次第大乗仏教の中で大きな思想的位置占めようになった

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