分裂時代と仏教復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:46 UTC 版)
王朝が滅亡して統制がなくなると、チベット仏教も一時退廃を見せた。僧伽の活動は衰退し、当時インドで流行していた性瑜伽(性的修行法)や呪術的修法を説く在家密教、すなわち、タントラ主義が横行した。吐蕃王家の亡命政権の1つである西チベットのグゲ王国は、王朝時代の伝統保存と仏教復興の担い手となった。 11世紀になると、インドから入国して仏教界を指導したアティシャ(在位:982年 - 1054年)とその弟子のドムトン(英語版)らによって戒律復興運動が起こり(カダム派(英語版))、出家教団が再興された。般若経の解釈学、唯識や如来蔵思想の研究、中観思想の二派の論争など、顕教の哲学研究が盛んになった。 他方、マルパ(中国語版、英語版)訳経師とミラレパらによって新たにインドのナーローパ(中国語版、英語版)やマイトリーパ(英語版)直伝の後期密教(ナーローの六法(中国語版、英語版))がもたらされた(カギュ派)。アティシャも、戒律に違犯した行法は禁止したが、密教を学ぶことは容認したため、密教化した大乗仏教が排除されて、初期仏教の本流に近い上座部仏教が徹底されたスリランカや東南アジアとは異なり、チベットでは相互に矛盾する見解を持つような、あらゆる学派の顕教や、密教が総合的に学習される傾向が生じた。
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