河合奈保子 河合奈保子の概要

河合奈保子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/08/11 01:56 UTC 版)

河合 奈保子
基本情報
出生名 河合 奈保子(かわい なほこ)
別名 金原 奈保子(かねはら なほこ、本名)(旧姓 河合)
出生 1963年7月24日(51歳)
出身地 日本の旗 日本大阪市住吉区(現・住之江区
血液型 O型
学歴 大阪女子学園 - 明治大学付属中野高校定時制卒業
ジャンル アイドル歌謡曲
職業 歌手シンガーソングライター女優
活動期間 1980年 - 1996年

人物

所属事務所は芸映プロダクション、レコード会社は日本コロムビア(2002年(平成14年)10月から2010年(平成22年)9月までの社名はコロムビアミュージックエンタテインメント)に所属していた。1980年代の歌手・アイドルの一人である。本名は「かわい なほこ」だが、芸名では「かわい なおこ」と読ませている。

シングル売上記録は「エスカレーション」「スマイル・フォー・ミー」「夏のヒロイン」「けんかをやめて」(オリコンチャート)の順。

歌以外にもピアノギターマンドリンシンセサイザーを演奏し自作曲(作詞作曲)も発表した。雑誌のグラビアアイドル水泳大会に登場していた。

1996年2月1日、記者会見にてヘアメイクアップアーティストの男性との婚約を発表。同年2月6日に婚姻届を提出。翌1997年の第一子出産を契機に芸能活動を停止する。夫との間に2児あり。このうち第二子であるkahoは2013年11月27日にソニー・ミュージックから「Every Hero/Strong Alone」でデビューした[1]

略歴

デビューまで

大阪市住吉区(現・住之江区)出身。1963年7月24日、浪速区の愛染橋病院において会社員の父親の長女として誕生(2400グラムの未熟児)。3歳年下の妹がいる。

粉浜小学校入学と同時にピアノを習い始めた。住吉第一中学校時代はフォークソングクラブに所属、中学2年の秋に日本テレビ系列『スター誕生!』に応募するが、この時は書類選考の段階で選外となる[2]1979年に私立大阪女子学園(現:大阪夕陽丘学園高等学校)に進学する。

アイドル歌手時代

1979年12月、芸映プロが主催した「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」に応募。河合がオーディションを知ったのは締切の直前で、応募書類とデモテープを作成して送ったのは締切前日だった[2]。オーディションの選考過程も紙一重で、大本恭敬の「理想の声に近づく本」によれば、大阪の地区予選も一旦は最終審査に残らず、当初の定数1名に対して特別に2人目の代表として選出された(最初に選考され、河合と共に決勝大会に進んだもう一人の大阪代表は後の小林千絵[3])。翌1980年3月16日中野サンプラザで開催された決勝大会で優勝する。オーディション応募テープでは「オリビアを聴きながら」を、決勝大会では「春ラ!ラ!ラ!」を歌った[2]。 同月末に上京して歌レッスンを受けた後、1980年6月1日に「大きな森の小さなお家」で「西城秀樹の妹」という触れ込みと共に歌手デビュー。この過程で明治大学付属中野高校定時制に編入し、後に卒業した。

デビュー時のキャッチフレーズは、「ほほえみさわやかカナリー・ガール」。2枚目のシングル「ヤング・ボーイ」がヒットとなり複数の音楽祭で新人賞を受賞する。

デビュー2年目の1981年10月5日16時頃、NHKホールでの『レッツゴーヤング』のリハーサル中、誤って4m下の迫りに転落し第一腰椎圧迫骨折の重傷を負う[4]。約2ヶ月間の療養の後、同年11月30日放送の『夜のヒットスタジオ』より復帰を果たす。同年12月31日第32回NHK紅白歌合戦に「スマイル・フォー・ミー」で初出場しトップバッターを務めた。翌年4月頃まで療養のためにコルセットを腰に装着して芸能活動を行う[5]NHK紅白歌合戦に初出場した際は、転落事故からの復帰直後で、かつ事故現場のNHKホールだったが、本人によればリハーサルは恐怖感が先に立ったものの、本番の出番寸前に不安や緊張が全て消えたという[6]

1985年、5度目の紅白歌合戦に出場の際、白組の吉川晃司が演奏後にアドリブでギターを壊すパフォーマンスをは始め、既に歌唱予定の「デビュー」が流れてしまう。結局、1コーラスが歌えないハプニングに遭うが、動じずに堂々と歌い切る。吉川サイドが、その後、謝罪に河合のもとを尋ねた際に「もう過ぎてしまったこと」と、あっさり許したと言うエピソードがある。

ライブコンサートは1980年代の後半まで行われた[7]1983年から1988年まで7月24日の誕生日に東京よみうりランドのEAST野外ステージで行われたバースデイライブなどが行われ、EASTライブは6回全てが映像ソフト化されている。

アイドル以外の仕事へ

1984年発表のアルバム「デイドリーム・コースト」では録音から制作に参加、それを契機に音楽の制作面にも関与する。1985年、ベストアルバム「NAOKO 22」のボーナストラックという形で自作曲を発表、コンサートでも次第に自作曲の割合が増え、1986年には初の全作曲オリジナルアルバム「スカーレット」を発表。

1987年4月のKBS京都の交通安全キャンペーン「かたつむり大作戦」のキャンペーンソングの歌詞募集の選考し、その詩に自ら作曲した『やさしさの贈り物[8]』を「かたつむり大作戦」の会場「KBSホール」から歌唱した。 またこの時期はテレビドラマミュージカルにも積極的に出演した。1985年のアニメ映画『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』では主題歌と共に声優として出演。1989年には、ミュージカル『THE LOVER in ME 〜恋人が幽霊』に出演し、同作品では作曲も担当した。テレビドラマでは、『さすらい刑事旅情編』、『ママじゃないってば!』に出演。 1988年岐阜市で行われた「ぎふ中部未来博」で、メインパビリオンであるスカイマックス未来館の館内環境音楽を担当した。

1989〜1990年には、ザ・ジェントル・ウインド名義のセッションアルバム「Tears of Nature」、「Gentle Voice」で全作曲を担当すると共に、キーボード奏者兼バックグランドボーカルとして参加し、ミッキー吉野らと共演したこともあった。

長期休業

1996年2月1日記者会見にてヘアメイクアーティスト金原宜保との婚約を発表。同年2月6日に結婚。翌1997年の第一子出産を契機に芸能活動を停止する。

2005年6月に芸映プロ公式ウェブサイトの所属タレント一覧から項目が削除されたが、このとき芸能事務所から所属に関する発表はされなかった。

2006年4月26日にiTunes Music Store限定で自作ピアノ作品集「nahoko 音[9]」を発表した。同年11月28日にはCD化もなされ、同時に公式ウェブサイトが開設された。

2008年12月21日付の竹内まりやのブログ「Pholog」に6年ぶりに再会した記事が写真付きで掲載された。

2009年10月19日放送のSUPER SURPRISEにおいて既に芸映に所属していない事が報じられた[10]

2010年4月、楽曲提供した池田泉州銀行のCMが関西地区で放映された。

2010年10月26日発売の光文社発行の雑誌「FLASH」2010年11月9・16日号で「独占取材」という形で、オーストラリアでの近況についての記事が掲載された。この中で自身の現在のことと将来のことに関して「今は専業主婦がメインだが、音楽活動が出来ることになれば皆さんの前できちんとご挨拶できたら良いです」という旨のコメントを寄せている。

エピソード

特徴

  • デビューの年の秋に開かれたファーストコンサートでは、直前まで不安定さが懸念されたものの、本番では歌踊り共に無難にこなした[11]
  • デビュー当初からライブや歌番組、特に賞番組に於いて感情を表に出して歌えなくなることはほとんどなかった。この点に関して本人は「泣くと歌が歌えなくなるから」と答えている[2]
  • デビュー後しばらくの間、仕事以外では全く化粧をしなかった[2]
  • アイドル時代、少なくとも首都圏での仕事や全国向けテレビ・ラジオ放送においては、関西弁を使わなかった。ただし、関西の生活文化の話題は普通にしており、1980年当時、月刊明星において「大阪の実家では節分にはその年の方角(吉方位)を向いて巻き寿司を食べる習慣がある(恵方巻)」と発言している。

その他

  • 笑福亭鶴瓶がサインをねだる熱心なファンの少女に、サインをしたが可愛い子だなぁと思い、印象に残ったという。それがデビュー前の河合だったと後に語っている(『鶴瓶のぐるぐるぐるめ』1984年)。
  • デビュー間もないころの『週刊少年チャンピオン』1980年44月号315Pのインタビューで「太ってるから水着は本当に恥ずかしい」と話しているが、デビュー当時から河合を撮り続けた写真家の黒坂了司によれば、「水着撮影を嫌がったり、胸を気にすることはなかった」とのこと[12]
  • 巨人投手斎藤雅樹が、高校時代から河合の強烈なファンであった。[要出典]
  • テレビや雑誌等で好きな食べ物を聞かれると「お好み焼きとたこ焼き」と答えていた。82年のザ・ベストテンでは実際にお好み焼きを作る姿を披露している。
  • 小学生の頃の夢は保母さんになる事だった。1984年9月20日のザ・ベストテンではタイムカプセル用に録音された当時のテープが公開され「近所の小さい子がお姉ちゃんと慕ってくれるのが嬉しい。だから保母さんになりたい。」と将来の夢を語っている様子が放送された。
  • サンミュージック所属(当時)の岡田有希子は彼女のファンで、中学一年の時に描いて学校で金賞を獲った河合奈保子の肖像画(油絵)を歌番組で披露したことがある[13]



[ヘルプ]
  1. ^ 河合奈保子の娘kaho14歳歌手デビュー - 2013年9月26日、日刊スポーツ
  2. ^ a b c d e 『別冊近代映画 河合奈保子特集号』(近代映画社刊 1981年)
  3. ^ さんまのまんま』フジテレビ1996年3月1日(2月29日深夜)放送分。小林と共に出演。
  4. ^ 第一報は、事故当日に放送された『ザ・トップテン』の中で速報として伝えられた(その際、番組の司会者だった堺正章が『奈保子ちゃんにね、激励の拍手を送ってあげてください、皆さん!』と会場の観客に呼びかけたほか、エンディングでも『奈保子ちゃんには、一日も早く回復に向かってほしいと思いますね』とコメントした)。
  5. ^ 療養の経緯は、自筆エッセイ「わたぼうし翔んだ ―奈保子の闘病スケッチ―」に詳しい。
  6. ^ 『わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ(ワニブックス刊 1983年)』
  7. ^ ファンクラブ会報のスケジュール表より。
  8. ^ 1988年発売の『悲しい人』のB面に収録
  9. ^ 「nahoko 音 / blue」「nahoko 音 / orange」2作品同時リリース。
  10. ^ この際にオーストラリア在住である事もテレビでは初めて報じられた。
  11. ^ 『理想の声に近づく本』(大本恭敬著 シンコーミュージック刊 1988年)
  12. ^ 「アサヒ芸能」(徳間書店)2013年8月8日号
  13. ^ ザ・トップテン』(日本テレビ系列)1985年10月21日放送分。


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