教育哲学
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教育哲学(きょういくてつがく、英語: philosophy of education)とは、教育の主要なテーマ、例えば、その目的、対象、そこで価値ありとされるような要因について、哲学的な分析と解明を目指す教育学の一分野。
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- 1 教育哲学とは
- 2 教育哲学の概要
教育思想
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また、デューイの学習論から出てくる問題解決学習は、コロンビア大学でかれの引退と入れ替わりに、世界で初めて大学の看護学部が誕生するとき、その教育方法の根底をなすものとして影響を与えた。彼の教育論は、人間の自発性を重視するものである。彼は人間の自発的な成長を促すための環境を整えるのが教育の役割だとした。 またデューイは、アレクサンダー・テクニークの創始者フレデリック・マサイアス・アレクサンダーの思想にも関心を寄せ、アレクサンダーの3つの著作の序文を書いた。
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教育思想
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井上は軍事学よりも普通学を重視する教育方針を堅持した。この方針は武官教官の一部から強い反発を受け、戦局の悪化で即戦力を求める軍令部や航空関係者からも強く批判された。井上は、1952年(昭和27年)10月に、長井の自宅を訪れた防衛大学校初代校長の槇智雄(井上と同郷)に、その心境を井上は「私は(槇さんに)『ジェントルマンを作るつもりで教育しました』とお答えしました。つまり兵隊を作るんじゃないということです。丁稚教育じゃないということです。それではそのジェントルマン教育とは何かということになれば、いろいろ言えるでしょうが、一例を言ってみれば、イギリスのパブリック・スクールや、オックスフォード・ケンブリッジ大学における紳士教育のやり方ですね。これは、それとは別の話ですが、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人達が本当に勇敢に戦いましたね。日ごろ国から、優遇され、特権を受けているのだから、今こそ働かねばというわけで、これは軍人だけじゃないですね。エリート教育を受けた大半の人達がそうでしたね。私は、一次大戦の後、欧州で数年生活してみて、そのことを実感として感じました。『ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える…ということです。ジェントルマンが持っているデューティとかレスポンシィビィリィティ、つまり義務感や責任感…戦いにおいて大切なのはこれですね。その上、士官としてもう一つ大切なものは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官のする役割です。そういう下士官を指導するためには、教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官と違ったところだと私は思っておりました。ですから、海軍兵学校は軍人の学校ではありますが、私は高等普通学を重視しました。そして、文官の先生を努めて優遇し、大事にしたつもりです」と語った。井上は、教官たちに「自分がやりたいのは、ダルトン・プランのような 『生徒それぞれの天分を伸ばさせる天才教育』 ではない。兵学校の教育は 『画一教育』 であるべき。兵学校では、まず劣等者をなくし、少尉任官後に指揮権を行使するのに最低限度必要とされる智・徳・体の能力を持たせて卒業させ、その見込みのない者は退校させねばならない。兵学校教育の目標は、結果として、少尉任官に指揮権を行使する最低限度能力を持てないと見込まれる退校者を出さないよう、生徒をしっかり教育することである」という旨を示し、秀才は放っておけ、まず劣等者をなくせ、と端的に指示した。 井上が兵学校長在任中に兵学校生徒は激増したが、それを教育する教官、特に普通学教官・体育教官の充足が困難で、太平洋戦争開戦後に制度化された一般兵科予備士官を活用することとなった。予め、教官配置に適した大学生等を「青田買い」して(具体的な方法は出典文献に記載なし)、兵科予備学生として採用し、兵科予備士官の基礎教育(6か月ないし3か月)のうちから「教育班」に配属して「教官養成教育」を施し、基礎教育終了後、一般の予備学生が砲術学校や通信学校などで教育される所を、「教育班」の予備学生は兵学校で「教官実務教育」を数か月受け、兵学校の普通学教官・体育教官となった。戦争が激化し、初級士官の消耗と需要が激増すると、特に戦場帰りの武官教官から「戦争が終わるまでの特別措置として、普通学の時間を思い切って減らし、軍事学・訓練を主としたものに兵学校教育を転換すべし」という意見が高まったが、井上は、あくまでも、従来通りの「普通学重視」の方針を貫いた。 兵学校には、よく海軍の現役・退役の先輩がやって来た。井上の着任以前は、その都度、全校生徒を集めて、先輩の講話を聞かせる例であったが、井上はこれを止めさせた。井上は「大将だって何を言い出すか分らない。自分の方針に反するようなことを言われては迷惑至極だ。例えば、校長時代にダルトン・プランという『天才教育』を主張した永野修身元帥が生徒の前で『おのれの天分を伸ばせ』などと言われたら、自分のしている百日の説法も屁一つになってしまう。ただでさえ、生徒たちは、自分の好きな学科だけやって嫌いなものをなおざりにする傾向があるのだから尚更である」と回想する。 兵学校では、従来、最初の1年は全員が英語を学び、後は、英・独・仏・支那・露のいずれかを希望によって専修するシステムだったが、1941年(昭和16年)9月からは、全学年を通して英語だけを学ぶシステムに変っていた。太平洋戦争開戦の前から、日本社会では「英米排斥」の風潮が強くなっており、中学校では英語の授業を減らしたり、廃止する所が多くなっていた。それを反映して、陸軍士官学校では、採用試験から英語を除いた。海軍省教育局は、非公式に兵学校側の意見を問い合せてきた。それを受けての、兵学校の教頭以下の教官を集めての会議では、英語科の教官以外が全員一致で「優秀な中学生が、英語の試験を嫌って陸士に流れるのを防ぐため、海兵でも陸士に倣って採用試験から英語を除くべし」と主張した。教頭が、井上に「教官の総意はご覧の通りですが、採用試験から英語を除くべし、と教育局に返答してよろしいでしょうか」と決裁を求めると、井上は「兵学校は将校を養成する学校だ。およそ自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。英語の嫌いな秀才は陸軍に行ってもかまわん。外国語一つもできないような者は海軍士官には要らない。陸軍士官学校が採用試験に英語を廃止したからといって、兵学校が真似をすることはない」と即答した。井上のこの決断により、兵学校の採用試験に英語が残されたことはもちろん、入校後の生徒教育でも英語が廃止されることはなかった。多数意見を却下された教官たちから「校長横暴」との声もあったが、「こういう問題は多数決で決めることではない」という井上の考えは揺るがなかった。このことは、戦後、大学に入り直すなどして再出発することになった卒業生達から相当感謝されている。 語学に優れていた井上は兵学校の英語教育について、「英語を英語のまま理解し、使う(英語を和訳し、日本語を英訳するのではない)」する「直読直解主義」を英語教官に示し、そのような教育をするよう工夫を求めた。そのため、英英辞典の使用を奨励し、その時に在校していた73期・74期と、入校予定の75期の一人一人に貸与するため、総数5千冊の英英辞典が必要となった。井上は、兵学校主計長に特に指示して、英英辞典5千冊を調達させた。英語教官たちは、井上の方針を実現するべく「授業中に日本語を一切使わない」など試行錯誤した。ただし、兵学校の「名物英語教官」であった、文官教授の平賀春二は、井上の唱える英語教育方法は理想的だが、戦時中の兵学校で実現するのは困難と考えた。平賀は「旧制高等学校のように英語の時間数の多い学校でなら効果も上がりましょう。しかし、時間数の比較的少ない兵学校で、しかも戦局日々に緊迫の度を加えつつある折から、このような授業はまどろっこしく、且つ非能率だと思われてなりませんでした。また微妙な個所は外国の言葉ではままならず…」という。井上も、「井上式英語教授法」の徹底が難しいことは理解しており、授業視察で、自分の期待通りの英語教育が実行されていないのを見ても、「井上式」を強制することはなかった。 井上は兵学校にはつまらないルールが多すぎる、という結論に達し、生徒隊と企画課に訓育・学術教育とも、もっとゆとりのあるやり方に改めるよう指示した。その結果、生徒隊では隊務処理を、生徒が居住する「生徒館」内で済ませるよう改め、ルールを減らしていった。井上の改革は、生徒隊監事をして「校長はみんなぶちこわしてしまう」と言わせるほどであった。学術教育についての井上の考え「詰め込み教育の改善」(井上の前任の各校長も、井上同様の印象を持ち、部下に検討・改善を指示していた)の実現は困難だった。井上の求めに応じて、企画課が検討して提出した答申は「かつて、永野校長時代に導入したダルトン・プランは失敗に終わった。当時の修業年限は3年8か月(その後、4年まで延長)あったが、現在は3年であり、さらに短縮される趨勢である。兵学校の学術教育で教えるべき内容が増えているのに、入校者の学力は、中学校の教育水準の低下によって落ちる一方。生徒数の増加によって、上下の格差が開いている。現在の兵学校の学術教育は、『劣』の生徒に、十分正確に理解させるので手一杯である」という趣旨であった。井上は「生徒数が非常に多くなっていたので、リモートコントロール方式、つまり教官たちに私の考えを充分理解してもらい、教官を通じて生徒たちに私の考え方を伝えてもらう方式を採った。私が兵学校で、何千人という生徒に対してやったのは『教官教育』です。それしか手はないと考えました」と回想する。 井上は、兵学校長に着任して生徒の様子を実見した印象を「あのころの流行語でいうと、張り切っているのです。張り切っているというのは、私、大嫌いなんです。人間、朝から晩まで張り切っていられるものではないんです。リズムがあるはずなんだ」「下士官、兵ならいい。人から命じられて、人の指図で働くには、ああいうのが最良の部下なんだ。しかし、士官というものは、何を、いかに、いつ、どこでどうすべきかを、自分で考えて決定せねばならない。つまり、士官にとって自由裁量が一番大切なのだ。生徒に家畜みたいな生活をさせてはいけない、そう思いました」と回想する。 井上が兵学校長に着任して約半年後、旧知の間柄でもある陸軍士官学校長の牛島満中将が兵学校を視察した際、「井上さん、君の所の生徒は皆可愛い顔をしている。私の所の生徒はもっと憎らしい顔をしているがね」と言った。これに対して、井上は「制服の色や形のせいでしょう」と答えているが、「校長横暴と言われながらもやってきたことの成果が出ている。他所の人も同じ感じを持つんだ」と、内心自ら慰めるところがあった。
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教育思想
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ニイルは、子供の幸福こそ、子供のしつけや養育の中で最も重要なものと見なされるべきであり、この幸福への最も主要な寄与は、子供にその個人的な自由を最大限認めてやることだと考えていた。これは、当時としてはかなり議論の余地のあるところで、彼の見解はあまりにラディカルで、包括的過ぎるとして一般にはほとんど賛同を得られるものではなかった。 彼は、児童期のおけるこうした自由の感覚を奪い取ったり、抑圧された子供の徹底した不幸せ感が、すべてとまではいわないものの、成人の大多数の心理的な不調の原因とになっていると考えた。 ニイルは、そこでサマーヒル・スクールには、子供が授業に出るように一切強要することをしない、という原則を設けた。加えて、この学校は民主的で、すべてのものごとは生徒、教師の全員参加の会議で決められ、生徒も教師と同様の一票の権利を与えられている。 多くの人は、この学校がこれまで成功してきたことは、子供に試練や厳しい生き残りのチャンス、残忍さ、暴政、そして混乱を経験するための処方として自由を与えると言うウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』のやり方を断固として排除してきたからだ、と考えている。 ニイルの信念を持った彼のサマーヒルでの経験が教えてくれるのは、個人の自由から生まれる自己への信頼は、学業成績の遅れや自己中心性、わがままを齎す(もたらす)というどころか、学習への動機付けや授業への出席率が、多くの場合、権威的な教育の場合の子供達の場合と悪くても同じくらいの高さになったということである。サマーヒルの生徒たちのほかの生徒や大人たちへの態度は、現実にはかなり大人びていて、個人個人の責任をよく自覚しているように見受けられる。彼らの権威に対する態度は、素朴に度外視しているというほどではないが、敬意を表しているというよりは、やや懐疑的である。こうした傾向は、たぶんサマーヒルが受け容れている子供たちが、しばしば問題をはらんだ背景をもった子供達が多いということも考慮に入れなくてはならないだろう。たとえば、両親の不仲とか、ネグレクトとか、それがもとで心の中に殺伐としたものを抱えていたりするといった事情である。 彼は、多くの知識人、思想家などと交友を結び、その中にはヘンリー・ミラーやヴィルヘルム・ライヒ、彼の学校をまねて自らもミニスクールを創立したバートランド・ラッセルも含まれる。
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