旧制高等学校
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旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう、旧字体: 舊制高等學校󠄁)は、明治時代から昭和時代前期にかけての日本に存在した高等教育機関。存続時期のほとんどにおいて、帝国大学を中心とする官公立の旧制大学学部への進学のための予備教育(現在の大学教養課程に相当)を、男子のみに対して行った。
注釈
- ^ 1900年、岡山に第六高等学校が設立されたことから、約1年間、岡山にナンバースクールが2校存在していたことになる。このような例はこれが最初で最後であった。
- ^ ただし、必ずしも番号を付した学校群や番号の順番に難易度が定まっていたわけではない。実際の難易度を検証した場合、昭和10年代から一高の次に難しいのは浦和高校であったし、他にも、東京高校、大阪高校、静岡高校などは多くのナンバースクールよりも入学困難で、かならずしもナンバースクールが地名校より優秀だったわけではない。また、真に優秀な人間は小学校から(中には5年から飛び級で)、東京高校や府立高校、浪速高校の尋常科に入り、一高はその残りかすであると豪語するこれらの学校の卒業者も存在する。
- ^ 府立高尋常科出身の独文学者山下肇によると、1932年(昭和7年)ごろの東京では、最も優秀な男子の受験生は府立、東京、武蔵の各尋常科に入学し、それらに落ちた者の上位層が東京府立一中や四中、東京高等師範附属中に入学、その次の中位層が各府立中学校(九中まで)に、そして一中や四中に落ちた者が麻布や開成に入学し、慶應普通部や早稲田中は三流四流の扱いだった、という[6]。
- ^ 1947年度の入学試験にて女子学生の募集を行った高校は、第五・第七・新潟・山口・山形・佐賀・松江・福岡・静岡・姫路・広島・富山・学習院であった[9]。
- ^ ただしB級校のうち、高知県立女子医学専門学校のみは高知県立女子専門学校に転換した。
- ^ 7年制私立高校は各校とも単独で新制大学へ移行した。
- ^ 1940年(昭和15年)の各帝国大学の旧制高校卒業者率は東京96.0%、京都91.6%、名古屋80.6%、東北79.0%、大阪75.2%、九州57.2%、北海道4.4%であった[11]。
- ^ 3条の白線を採用したのは三高、五高、山口高、佐賀高、松江高、北大予科、台大予科である[12]。
- ^ 四高は当初4条の白線を採用していたが、1919年に2条に改められた[13]。
- ^ 武蔵では1946年に服装規定が廃止され、白線帽が見られるようになった[14]。
- ^ 成蹊は1940年から白線帽とマントの着用を認めた[16]。
- ^ 成城でも白線運動が起こり、戦中から戦後にかけて詰襟と白線帽姿の学生が多くなった[17]。
- ^ 文部省『学制百年史 資料編』によると、1948年当時は官立28校、公立5校、私立6校の計39校が存在した[18]。
- ^ 現:東北大学国際文化研究科・情報科学研究科
- ^ 現:京都大学総合人間学部
- ^ 現:岡山大学法学部・文学部・経済学部
- ^ 第七高等学校造士館は第二次世界大戦後に造士館の名を外し、廃校時には単に鹿児島大学第七高等学校であった。
- ^ 現:名古屋大学情報文化学部・教養教育院
- ^ 1886年(明治19年)11月に、第一(東京)・第三(大阪、後に京都へ移転)に次ぐ全国3番目の高等中学校として山口市亀山地区に設立され、1894年に山口高等学校と改称(通称「旧旧山高」)したが、他府県出身者が多くを占めたため1905年に山口高等商業学校に転換。
- ^ 1894年山口市亀山地区に開校した通称「旧旧山高」は1905年に山口高等商業学校に転換されていたが、これとは別に1919年山口市糸米地区に改めて開校(通称「再興山高」)して学制改革を迎えた。
- ^ 新制神戸大学は神戸経済大学予科と姫路高等学校を包括したため、統合移転するまで教養部の教育は御影分校と姫路分校とにわかれておこなわれて、文理学部が御影分校にあった。また、1953年まで数学科が教育学部の赤塚山校舎にあった。
- ^ 現:広島大学総合科学部
- ^ 公立富山高等学校高等科を官立移管して1943年に開校。
- ^ 現:神奈川歯科大学・神奈川歯科大学短期大学部
- ^ 現:東洋学園大学
- ^ 3・4年次のみ。1・2年次はA級判定され、徳島医科大学に昇格
- ^ 医学科のみ旧制高等学校へ転換。歯学科は福岡県立歯科医学専門学校を経て新制九州歯科大学に。
- ^ 東京高等学校尋常科は1948年に東京大学附属学校に改組された。翌年、東京大学に教育学部が創設され、同附属学校は1951年、「東京大学教育学部附属中学校・高等学校」が正式名称となった。その後、2000年4月1日に東京大学教育学部附属中等教育学校に移行した。
- ^ 1943年に高等科を官立に移管、尋常科は「富山県立高等学校」と改称、募集停止して1946年に閉校。
- ^ 1943年(昭和18年)7月1日、東京都制が施行され、東京府と東京市を統合する形で東京都が設置された。これに伴い「都立高等学校」に改称された。
- ^ 2005年の首都大学東京への再編を経て、2020年より再び東京都立大学となる。
- ^ 1948年に都立高等学校は、高等科が他の旧制都立学校とともに東京都立大学となり、尋常科は都立新制高等学校に改組された。1950年に東京都立大学附置学校となり、同年東京都立大学附属高等学校と改称した。2005年、東京都の学校改革により、東京都立大学は「都立大学」ではなくなったため、制度上は東京都立大学の附属校ではなくなった。定時制は同年度限りで閉科し、全日制の課程も実質的に2006年度に新設された東京都立桜修館中等教育学校へ吸収され、2010年度に閉校した。
- ^ ただし、山梨県立高校と福岡県立高校のみが、1948年度入学者が卒業する1951年度まで存続した。
出典
- ^ “「近代数学」 と学校数学 (その2)旧制高等学校の数学”. www.kurims.kyoto-u.ac.jp. www.kurims.kyoto-u.ac.jp. 2022年1月27日閲覧。
- ^ 『事典 昭和戦前期の日本』 387頁。
- ^ 学習院高等科ニ適用スヘキ規程ニ関スル件(大正10年4月23日皇室令第4号)
- ^ a b 『旧制高校物語』 88頁。
- ^ a b 『旧制高校物語』 90頁。
- ^ 『ふたりの昭和史』 pp.184-185
- ^ a b 大島宏「女子に対する旧制高等学校の門戸開放 敗戦後における制度化の過程を中心として」『日本の教育史学』、教育史学会、2004年10月1日、109-128頁、doi:10.15062/kyouikushigaku.47.0_109、ISSN 0386-8982、NAID 110009688117。
- ^ a b 『旧制高校物語』 229-236頁。
- ^ 旺文社編『昭和23年度受験生必携 全國上級學校年鑑』 1947年11月発行、20-21頁
- ^ 『旧制高校物語』 245-251頁。
- ^ 『学歴貴族の栄光と挫折』 78頁
- ^ 熊谷晃 『旧制高校の校章と旗』 えにし書房、2016年、13頁
- ^ 『旧制高校の校章と旗』 31頁
- ^ 『旧制高校の校章と旗』 121-122頁
- ^ 関西大学百年史編纂委員会 『関西大学百年史』 通史編上巻、1986年、977頁
- ^ 『成蹊学園百年史』 589-590頁
- ^ 『旧制高校の校章と旗』 14-15頁
- ^ 2 明治6年以降5か年ごと学校統計 - 文部科学省、2020年3月5日閲覧。
- ^ 同志社々史々料編纂所 『同志社九十年小史』 学校法人同志社、1965年、109頁
- ^ 沿革|学校法人帝塚山学園 創立70周年記念事業
- ^ 港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)第8回 終戦秘話 幻の神奈川高等学校 - 大倉精神文化研究所、2019年7月28日閲覧。
- ^ 秋田県教育委員会 編『秋田県教育史 第6巻 通史編』「第1章 近代教育の拡充」、第3節 中等・専門教育、pp.167 - 168
- ^ 勅令第49号 官報. 1947年02月13日
- ^ 三谷裕康「豊中キャンパスの等価交換について」『大阪大学史紀要』第4号、大阪大学五十年史資料・編集室、1987年1月、67-69頁、hdl:11094/4209、ISSN 0389-7621、NAID 120004838411。
旧制高等学校
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旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう)とは、高等学校令(1894年および1918年)にもとづいて設置され、1950年まで存在した日本の旧制高等教育機関であり、その教育内容は現在の大学共通教育に相当する。制度としては、まず第1次高等学校令(明治27年勅令第75号)が定められ、後に第2次高等学校令(大正7年勅令第389号)に変わられた。第2次高等学校令では、高等教育の他に中等教育などを尋常科で行うことも可能であったが、多くの高等学校では高等教育のみが行われた。
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「三高 (曖昧さ回避)」の記事における「旧制高等学校」の解説
京都府に存在した旧制高等学校第三高等学校 (旧制)。
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旧制高等学校
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もともとナンバースクールのみであった旧制高等学校が公立、私立にも認められ、新潟、松本、山口、松山の官立高等学校の設立を皮切りに、第二次高等学校令に準拠し、旧制武蔵高等学校、旧制成蹊高等学校、旧制成城高等学校の順に設立された。後に東京四大学の前身となる3私立高等学校は、当時の旧制高等学校の中でも数少ない7年制を採用していた。また、旧制学習院高等科は学習院学制という特別な法令に基づく宮内省管轄の教育機関であったが、その形態は上記の7年制高等学校と同一のシステムを導入していた。
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