京都学派
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京都学派(きょうとがくは、英語: Kyoto School)とは、一般に西田幾多郎と田邊元および彼らに師事した哲学者たちが形成した哲学の学派のことを指すが、京都大学人文科学研究所を中心とした学際的な研究を特色とした一派も、京都学派、あるいは哲学の京都学派と区別するために、新京都学派とも称する。その他にも様々な学問分野において「京都学派」と呼ばれるグループが存在している。
注釈
- ^ 「日本の経済学者でシュンペーターのもとを訪れた者のうち、シュンペーター自身が、来る前から異常に高く評価したのは柴田敬であり、来た後に高く評価したのが都留重人であって、これ以外の人についてはほとんど評価していない」、「ケインズの日本人嫌いの理由の一つには、日本の経済学者でケインズのところへ来た人間にろくなやつがいなかったということがあります。論争らしい論争をやったのは柴田さん一人ですか」宮崎義一、伊東光晴「忘れられた経済学者・柴田敬」経済評論53/8月号
- ^ 国際的な経済学大辞典 (The New Palgrave1987) の独立項目にその名を記す日本人経済学者は僅か5人を数えるのみであるが、その一人として、柴田敬が選ばれている
- ^ ただし、元々の唯物史観での東アジアはアジア的生産様式での停滞を前提としており、宋以降中世説は日本独自の発展と言える。
出典
- ^ 粕谷一希『反時代的思索者 唐木順三とその周辺』,57頁
- ^ 下村寅太郎「汀の散歩Ⅰ」,524頁
- ^ 根岸隆:「経済思想10日本の経済思想2」鈴木信雄編 第4章 柴田敬 国際的に評価された最初の経済学者
- ^ 根岸隆:「現代経済思想の散歩道」倉林義正ほか編2004年7月15日 日本評論社 第8章 近代経済学の京都学派
- ^ 宮崎義一、伊東光晴「忘れられた経済学者・柴田敬」経済評論S53/8月号
- ^ 後藤嘉宏 「社会科学における書誌作成の意義と根拠:杉原四郎における経済思想史の方法論と図書館学的関心の関わり」『図書館学会年報』44巻2号(1998年9月)、pp.49-64
- ^ 小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』岩波現代文庫,2011年
- ^ 下村寅太郎「汀の散歩Ⅰ」- 「著作集13 エッセ・ビオグラフィック」、524頁(みすず書房、1999年)
- ^ 内藤、1944。
- ^ 宮﨑、1999。
- ^ 谷川編、1993。
- ^ 藤縄昭『私家本 仏像遍歴』ナカニシヤ出版、2002年2月、94頁。ISBN 9784888486729。
- ^ “西田哲学会 第10回年次大会プログラム”. 2014年4月閲覧。
- ^ “新文明学:New Philosophies of Japanese Civilization”. 2017年7月4日閲覧。
- ^ “「新文明学」シリーズ創刊”. 2017年7月4日閲覧。
京都学派
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京都大学の教授として多くの哲学者を育成した西田幾多郎と田辺元らは、京都学派と呼ばれる学派を形成し、日本における哲学の理論形成に影響を与えた。京都学派の思想については、今なお世界各国で研究が続いている。 詳細は「京都学派」を参照
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京都学派
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京都学派(きょうとがくは)とは、一般に西田幾多郎と田邊元および彼らに師事した哲学者たちが形成した哲学の学派のことを指す。京都学派は西洋哲学と東洋思想の融合を目指した『善の研究』などで表される西田哲学の立場に立ち、東洋でありながら西洋化した日本で、ただ西洋哲学を受け入れるだけではなくそれといかに内面で折り合うことができるかを模索した。しかしながら東洋の再評価の立場や独自のアイデンティティを模索することは次第に「西洋は行き詰まり東洋こそが中心たるべき」との大東亜思想に近づくことになった。特に京都学派四天王(西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高)らは、「世界史の哲学」や「近代の超克」を提唱し、海軍に接近した。このため太平洋戦争の敗戦により、戦前の京都学派はいったん没落した。だが戦後も高坂、高山らは自民党などの保守政治に接近し、京都学派と政治とのかかわりは今日に至るまで脈々と続いている。なお、陸軍が海軍に較べて圧倒的な力をもっていた時代において、海軍への接近は軍部政権への翼賛というよりは、軍部の方針を是正しようとする体制批判の行動であった。 大東亜戦争下の昭和十七年から翌年にかけ『中央公論』誌上で三回にわたり掲載され、大東亜戦争を「世界史の哲学」の立場から思想的に位置付けようと試みた「世界史的立場と日本」座談会(「世界史的立場と日本」昭和十七年一月号、「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」昭和十七年四月号、「総力戦の哲学」昭和十八年一月号)の出席者である。 大戦下は、京都学派と海軍との間で定期的に行われ、東條内閣打倒や陸軍の方針の是正が話し合われた秘密会合の常連出席者であった。 「世界史の哲学」は陸軍の皇道派により反国体思想として攻撃されていたが、大川周明『近世欧羅巴植民史』の亜流とする説[要出典]もある。 『京都哲学撰書第11巻 世界史の理論 京都学派の歴史哲学論攷』(森哲郎解説、燈影舎、2000年)が新版刊行。
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