昭和十八年とは? わかりやすく解説

昭和十八年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:51 UTC 版)

磯風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「昭和十八年」の解説

1943年昭和18年1月5日より、ラバウルからラエ陸軍51師団一部などを輸送する十八作戦参加。これは陽炎型5隻(谷風浦風浜風磯風舞風)が「ぶらじる丸」、「妙高丸」、「くらいど丸」、「日龍丸」、「智福丸」を護衛するものであった。「磯風」は「浜風とともに前年12月28日ラバウル到着船団1月5日ラバウルから出発したが、途中空襲で「日龍丸」が沈み7日ラエ到着した後にも「妙高丸」が被弾擱坐した。揚陸完了後、1月8日船団ラエ発。1月10日船団アメリカ潜水艦アルゴノート」の攻撃受けた上空哨戒であった航空機や「舞風」の攻撃後、「アルゴノート」は突然艦首海面から突き出し、それに対して磯風」と「舞風」は砲撃行いアルゴノート」を撃沈した同日船団ラバウル到着。 14-15日、駆逐艦秋月時津風、嵐、黒潮谷風浦風浜風舞風と共にガ島輸送成功同日、米潜水艦交戦撃沈報告している。23日舞風とレカタ輸送任務実施する26日舞風、喜山丸とコロンバンガラ輸送任務実施同時期、日本海軍レンネル島沖海戦で米戦艦2隻・巡洋艦3隻を撃沈しアメリカ軍行動一時封止したと判断実際重巡洋艦1隻沈没駆逐艦1隻大破)。劣勢に追い込まれていたガダルカナル島からの撤退作戦ケ号作戦発動する。第17駆逐隊の4隻も同作戦に従事した詳細は「ガダルカナル島撤収作戦」を参照 磯風三次にわたるガ島撤収作戦総て投入された。第二次撤収作戦時の磯風は、ガ島最前線指揮とってい第十軍司令部および歩兵第16連隊司令官と同連隊軍旗収容したこの際救助され磯風乗艦たばかり第十軍司令官百武晴吉陸軍中将を、磯風乗組員ビンタするという珍事起きた第十七軍参謀長宮崎周一陸軍少将は、磯風乗艦時の事を陣中日誌に以下のように記述している。 日没稍々前軍司令部ハ二梯団トナリ揚陸点ニ向ヒ薄暮海岸付近糧秣交付所ニ至リ時ノ至ルヲ待ツ、駆逐艦ノ入泊ハ予定ノ如ク予メ回航セル大発ニ依リ混雑ナク浜風移乗ス、約一時十分ニシテ第四揚陸点約千百名ノ乗艦終了ス、メテ順調、敵ノ妨害ナシ天佑々々愈々身ヲ駆逐艦士官室ニ置キ司令官ト共ニ煙草ニ火ヲ点シタル時ノ万感交々筆舌ニ表シ難シ、我命ヲ全ウシ得ルヲ喜ヘルヤ否然ラス行動不如意将兵身上胸中第三次シテ成功スルヤノ心配、之ニテ愈々嫌応ナシニ明日ハ「エレベンタ」ニ揚陸セサルヘカラス、何ノ顔有テカ人ニ見エン、曰ク何々曰ク到底筆ニシ難シ艦内ニテハ歩兵第二十九聯隊軍旗及同聯隊長同室ス、聯隊長大佐ハ予カ曩ニ「ガ」島上陸ノ為十月二十九日飛行艇駆逐艦ヲ共ニス真ニ奇縁ト謂フヘシ、船中第一線奮闘ノ状ニ就テ機多知ルヲ得タリ磯風艦長神浦少佐温和端正ナル容子ママシテ海ノ猛者タル観ナキモ其謂フ処頗ル我意ヲ得テ敬意ヲ表ス「今頃吾等任務陸兵輸送スルニ在リ、任務ノ為ニハ最善ヲ尽スヘク、推進機ヲ海底ニツケテハ困リマスカ艦首位ハ少々ツッ込ミマシテモ反転スレハ何デモアリマセン、夫レテ泊地ヲ努メテ岸ヘ近付マシタ」ト実ニ言ノ如シ、第一次第二次本艦泊地ヲ最モ近ク推進シ、今回ノ如キ或ハ三、四百米ニアラスヤト察セラル、之海軍ニシテ意気アリテコソ従来ノ偉大ナル戦果ヲ収メ得タルナリ、実行部隊指揮官意気ハ誠ニ貴フヘク敬スヘキナリ二三〇〇稍前発航ノ音ヲ聞ク、愈々「ガ」島ヲ離レントス、任務ハ同島ニ散華セル将兵ハ、残留将兵心中将来万感特ニ尽キス携行握飯ニテ空腹ヲ医シ、接待ノ「パイナップル缶詰舌鼓ヲ打ツ、疲労精神弛緩屡々マドロム海上メテ平穏後半月出タル筈ナルモ灯管シテ望ム能ハス — 大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中日誌 364-365ページ昭和18年2月4日記事17駆の救助人数は、第一次撤収作戦谷風408名、浦風771名、浜風807名、磯風1075名)、第二次撤収作戦谷風208名、浦風が790名、浜風634名、磯風が1174名)、合計5876名と記録されている。第三次撤収作戦中の2月7日午後4時前後磯風アメリカ軍機の空襲受けて損傷する爆弾2発が1番砲塔前後命中し艦首部分損傷大火災発生し舵も故障したスクリューが出るほどの浸水被害生じた駆逐艦長月や時津風曳航しようとしたが断り17ノット戦場離脱した駆逐艦江風曳航されたという証言もある。この被弾24名が戦死、7名が負傷した。共にケ号作戦参加した五月雨からは、磯風の一番砲塔下の船体大きく損傷し右から左筒抜けになっている光景見られた。 ショートランド泊地到着する救難船長浦丸の支援により応急修理実施11日ラバウル回航する工作艦山彦丸により一番砲塔撤去船体補強を行う。トラック泊地移動後、3月22日出発3月29日に呉へ到着した。この時、南雲忠一海軍中将大破した磯風視察しこれほど損傷した艦をよく連れ帰ってくれた」と乗組員賞賛した。南雲中将乗組員に、山口県湯田温泉への慰安旅行贈っている。磯風7月まで呉工廠修理従事するこの間着任したばかりの横暴な士官対す下士官兵全員参加した殴打事件があった。艦長熟慮した結果、兵の士気考慮して兵の反乱負傷した士官を退艦させている。 7月上旬修理完了磯風機動部隊指揮官小沢治三郎第三艦隊司令長官指揮下の第一航空戦隊重巡洋艦護衛しトラック泊地進出する陸軍南海第四守備隊軍需物資を各艦に便乗させて呉を出発7月15日トラック泊地進出した磯風他はトラック泊地停泊15-19日)を経由して21日ラバウル到着艦隊の再編が行われ、第十戦隊旗艦軽巡阿賀野から駆逐艦萩風一時変更乙部隊(水上機母艦日進萩風、嵐、磯風)はブーゲンビル島ブインへの、61駆逐隊涼月初月)はブカへの輸送作戦従事することになった利根から嵐に、筑摩から萩風に大淀から磯風に、それぞれ燃料補給が行われた後、乙部隊はラバウル出撃するショートランド北口オバウ島北方20付近航行中22日1345分中央日進日進右前3km萩風、同艦左前3kmに嵐、同艦後方3km磯風という対潜警戒陣形で進む乙部隊は、雲間より出現したB-17爆撃機アメリカ軍急降下爆撃機空襲を受ける。零戦16機が配備されていたが、アメリカ軍戦闘機30機以上・爆撃機46機の前に為す術もなかった。水上機母艦日進爆弾6発の命中により14時3分に沈没第七戦隊整備員35名と陸軍兵を含め1100名が戦死した磯風達は生存者の救出にあたるが、16時30前後にふたたびB-17襲来したため救助作業中止され本来の目的であるブインへの輸送作戦遂行する18時-20時にかけて人員746名と軍需品揚陸を行うと日進沈没地点戻り救助を行うが、2255分にアメリカ軍襲来により断念された。23日萩風、嵐、磯風ラバウル帰着した貴重な高速大型輸送艦日進沈没は、1943年3月初頭ニューギニア島ラエに向かう増援部隊ダンピール海峡全滅したビスマルク海海戦再現になってしまった。 その後、第4駆逐隊分離してトラック泊地戻っていた磯風は、8月6日に再びトラック出発第五戦隊、第61駆逐隊涼月初月と共に南海第四守備隊第三次部隊ラバウル進出させた。8月8日ラバウル着後、磯風は他艦と別れ南東方面部隊編入された。 「時雨 (白露型駆逐艦)#ソロモン海の戦い」も参照 アメリカ軍制空権制海権掌握しつつある中、磯風南東方面部隊編入されソロモン諸島海域活動続けた8月17日駆逐艦漣(第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐座乗)、浜風時雨と共に第一次ベララベラ海戦を戦う。8月25日以降浜風磯風時雨サンタイサベル島レカタ基地呉鎮守府第七特別陸戦隊撤収任務従事撤退作戦成功したが、空襲により浜風損傷内地回航された。9月28日コロンバンガラ島からの撤退作戦セ号作戦第一回撤退作戦参加磯風時雨五月雨第一夜襲隊を編成して撤退作戦掩護した。10月1日磯風時雨五月雨望月第二回撤退作戦参加アメリカ軍駆逐艦隊と交戦し戦果はなかったものの撤退作戦無事に完了した一連の撤退作戦1万2000名がコロンバンガラ島からの脱出成功した5-6日、ベララベラ島からの撤退作戦従事。その最中生起し第二次ベララベラ海戦駆逐艦秋雲三水司令官伊集院松治大佐座乗)、風雲夕雲五月雨時雨と共に参加。「巡洋艦または大型駆逐艦2隻撃沈駆逐艦3隻撃沈」という報告とは裏腹に実際アメリカ軍損害駆逐艦1隻沈没駆逐艦2隻大破日本軍駆逐艦夕雲喪失であったが、ベララベラ島からの日本軍撤退成功した10月30日磯風浦風トラックにて第十四戦隊司令官伊藤賢三少将指揮下に入りカビエンに向かう陸軍第17師団輸送船護衛することになった輸送任務三次にわけて行われ第十四戦隊、第17駆逐隊浦風磯風)、清澄丸、護国丸第二次輸送任務担当した11月1日駆逐艦駆逐艦長だった前田実少佐着任する当初部下厳しく接したため敬遠されたが、操艦の妙を発揮して乗組員信頼集めた同日第二輸送隊トラック出港した11月3日アメリカ軍B-24爆撃機空襲により那珂戦死7名重傷20名という損害を出す一方特設巡洋艦清澄丸は被弾浸水して航行不能となる。同船曳航五十鈴が行い、那珂磯風および途中合流した水無月はその護衛あたった浦風護国丸先行してラバウル向かった11月4日磯風等はニューアイルランド島カビエン到着ラバウルより到着した軽巡洋艦夕張をふくめ、各艦は清澄丸より物資人員転載した。磯風兵員236名、山砲2門等を受け入れた14時18分、五十鈴機雷触れるが損害軽微であった出港時の16時29分、磯風左舷後部触雷小破同乗していた陸軍あわせて63名の負傷者を出す。このため磯風カビエン残置された。同日をもって17駆(磯風浦風)は遊撃部隊編入されるトラック泊地工作艦明石接舷して応急修理をしたのち、内地回航部隊妙高羽黒磯風時雨白露)はそれぞれ日本本土へ向かった11月18日呉に到着磯風呉海軍工廠修理する12月28日修理完成

※この「昭和十八年」の解説は、「磯風 (陽炎型駆逐艦)」の解説の一部です。
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