ソロモン海の戦い
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「荒潮 (駆逐艦)」の記事における「ソロモン海の戦い」の解説
10月15日、荒潮の予備魚雷8本を陸揚し、後部甲板に大発動艇(十三米特型運貨船)搭載装置を新設する工事が指示された。20日、第8駆逐隊に満潮が復帰し、駆逐隊司令に山代勝守大佐が就任した。第8駆逐隊は第八艦隊(三川軍一中将)に編入された。修理を終えた荒潮は11月21日にソロモン海域に進出、ブナ輸送作戦に従事した(ブナ・ゴナの戦い)。12月1日、駆逐艦4隻(朝潮、荒潮、磯波、電)でラバウルを出撃したが、空襲等で輸送できた兵力は半数程度だった。8日4時30分、駆逐艦6隻(風雲、夕雲、朝潮、荒潮、磯波、電)でラバウルからブナに向かったが、8時15分に空襲で朝潮が損傷し、引き返した。11日夜、駆逐艦5隻(風雲、夕雲、荒潮、磯波、電)でラバウルを出撃。ニューアイルランド島カビエンで熊野と鈴谷から燃料補給を受け、迂回航路でブナへ向かった。14日に揚陸に成功したが、荒潮は空襲で7名が死傷した。同日夜、ラバウルへ戻った。 日本軍はニューギニア島東部のマダンとウェワク攻略作戦(ム号作戦)を発動し、荒潮は駆逐艦 涼風、電、磯波、愛国丸、護国丸 と共にマダン攻略部隊に編入された。各作戦部隊は16日にトラック泊地やラバウルを出撃し、ウェワクの攻略は成功したが、軽巡天龍を加えたマダン攻略隊は18日に空襲で護国丸が被弾、揚陸中に米潜水艦アルバコアの雷撃で天龍が沈没した。荒潮は天龍の救援を命じられたが、輸送作業が終わった涼風が向かった。マダン揚陸は完了し、攻略部隊は20日午前中にラバウルへ戻った。 12月下旬、ガダルカナル島への輸送路を防衛するため、ニュージョージア島のムンダ飛行場を中心に、バングヌ島、ラッセル諸島、ガ島カミンボに防空基地を設置することにした。バングヌ島ウイックハム基地の建設から始め、駆逐艦6隻(谷風、浦風、磯波、荒潮、夕暮、電)が陸兵と物資を積んで26日夕、ラバウルを出撃した。ショートランド泊地を経由して27日夜に揚陸に成功、28日朝にショートランド泊地へ戻った。29日、大潮が第8駆逐隊に復帰した。 1943年(昭和18年)1月2日、小柳冨次第二水雷戦隊司令官直率の駆逐艦10隻(長波、涼風、巻波、江風、荒潮、親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)はガダルカナル島輸送作戦を実施し、空襲で損傷した涼風と護衛の電が避退したが、輸送は成功した。4-7日には駆逐艦4隻(長波、巻波、江風、荒潮)でラバウルからショートランド泊地にドラム缶を反復輸送した。1月10-11日、小柳が指揮する駆逐艦8隻(黒潮、巻波、江風、嵐、大潮、荒潮、初風、時津風)はガ島への第六次鼠輸送作戦を実施した。作戦終了後の11日、荒潮は江風、巻波、大潮と共にニューギニア方面護衛部隊に編入され、ショートランド泊地からラバウルへ向かった。 詳細は「ケ号作戦」を参照 2月上旬、ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)が実行され、第8駆逐隊(大潮、荒潮)は3回とも従事した。2月14日、第8駆逐隊司令は佐藤康夫大佐に交代した。20日、大潮が輸送船団護衛中にマヌス島沖で米潜アルバコアの雷撃を受け、航行不能になった。荒潮はトラック泊地まで大潮の曳航を試みたが、21日朝に大潮の船体が中央で断裂し沈没した。荒潮は乗員を救助してラバウルに帰投した。
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ソロモン海の戦い
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8月7日、アメリカ軍のガダルカナル島とフロリダ諸島上陸によりガダルカナル島の戦いがはじまった。8月16日、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐(嵐座乗)指揮下の陽炎型駆逐艦6隻(嵐、萩風、陽炎、谷風、浦風、浜風)は陸軍一木支隊約900名(指揮官一木清直大佐)を乗せてトラック泊地発、8月18日深夜にガダルカナル島北東部のタイボ岬へ揚陸した。17駆3隻(谷風、浦風、浜風)はラビの戦いに従事するためラバウル基地へ向かい、3隻(嵐、萩風、陽炎)でアメリカ軍小型艦艇や陸地の米海兵隊を攻撃する。翌日、アメリカ軍のB-17爆撃機の空襲を受け萩風が大破した。嵐は萩風を掩護し、ガ島警戒任務を陽炎に委任して退避した。8月21日、嵐以下が輸送した陸軍一木支隊はイル川渡河戦で全滅した。トラック泊地到着直前の23日午後1時、嵐、萩風は山本五十六長官座乗の戦艦大和、空母春日丸(大鷹)、第7駆逐隊(漣、潮、曙)と遭遇した。萩風は修理のため日本本土に向かった。嵐はラバウルに向かい、27日に入港した。 詳細は「ラビの戦い」を参照 嵐は一時的に第十八戦隊(司令官松山光治少将:軽巡天龍、龍田)の指揮下に入ると、ラビの戦いに投入された。ふたたび第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)が嵐の僚艦となる。8月28日14時、天龍、浦風に護衛された駆逐艦3隻(嵐、叢雲、弥生)・哨戒艇3隻は、呉鎮守府第三特別陸戦隊(海軍陸戦隊)約770名を乗せてラバウルを出撃、29日18時にパプアニューギニアのミルン湾ラビ東方に到着して陸戦隊を揚陸する。9月1日16時、嵐は横五特約200名が分乗する哨戒艇2隻を護衛してラバウル発、途中で浜風と合流した。9月2日10時25分、アメリカ軍軽巡洋艦1隻および輸送船1隻ミルン湾入港との情報を得て駆逐艦2隻(嵐、浜風)のみミルン湾へ急行、だが米艦は既に撤収していたため水上戦闘は起きず、悪天候のため陸上との連絡にも失敗した。9月3日午前7時、松山少将より陸戦隊の負傷者収容と敵陣地砲撃命令を受けて2隻は反転、再びラビへ向かう。午後10時以降浜風は対地砲撃を実施、嵐は陸戦隊と連絡を取ったのち、負傷した呉三特司令を乗せて9月4日午前2時にミルン湾を出発、同日午後7時にラバウルへ帰着した。撤退作戦従事中の9月6日午後10時前後、2隻(龍田、嵐)はニューギニア島のミルン湾ラビに突入、港湾に停泊していた連合国軍貨物船1隻を撃沈した。翌日15時にアメリカ軍機とB-17の空襲を受け嵐に負傷者1名が出た。夜間、龍田、嵐は再びミルン湾に突入して対地砲撃を行うが、陸戦隊の収容は出来なかった。 ラビ方面の戦いが失敗すると、嵐は再びガダルカナル島の戦いおける駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に投入された。9月13日20時30分、嵐は輸送船佐渡丸(第二師団所属青葉支隊:支隊長那須弓雄少将)を護衛してラバウル発、14日午後4時ショートランド泊地着。同地で橋本信太郎少将(第三水雷戦隊司令官:旗艦川内)が指揮する外南洋部隊奇襲隊に編入された。軽巡川内、駆逐艦7隻(海風、江風、浦波、敷波、叢雲、白雪、嵐)は陸兵約1100名、連隊砲6、速射砲4、弾薬糧食等を搭載して午後11時にショートランド出撃したが、アメリカ軍機が活発に行動しているため15日朝の揚陸は中止、川内はショートランド泊地へ避退した。駆逐艦7隻のみで揚陸作戦を続行、9月15日午後8時頃にガダルカナル島北西カミンボ湾に到着して物資揚陸に成功した。ショートランドへの離脱中、輸送隊はアメリカ軍機の攻撃を受ける。嵐は急降下爆撃機9機、雷撃機4機に襲撃されたが、魚雷1本が艦底を通過して回避に成功、他艦も被害を受けることなく9月16日午後1時過ぎにショートランド泊地へ戻った。9月18日8時30分、有賀司令は駆逐艦4隻(嵐、海風、江風、涼風)を指揮してショートランド泊地発。またガ島ルンガ泊地にアメリカ軍輸送船団侵入の報告を受け、増援部隊(川内、浦波、白雪、叢雲、浜風)が急遽ショートランド泊地を出撃、ルンガ泊地へ向かうがアメリカ軍輸送船団は素早く撤収し、会敵できなかった。川内隊はルンガ泊地桟橋附近を砲撃、輸送隊(嵐、海風、江風、涼風)は夜10時以降ガ島カミンボ湾に到着して陸兵約170名、野砲4門、軍需品を揚陸した。9月23日附で嵐は第三艦隊に復帰し、25日にトラック泊地に到着した。 詳細は「南太平洋海戦」を参照 10月下旬、第4駆逐隊(嵐、舞風、野分)は南太平洋海戦に参加した。第一航空戦隊の空母3隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)を重巡1隻(熊野)、駆逐艦8隻(第4駆逐隊《嵐、舞風》、第61駆逐隊《照月》、第16駆逐隊《雪風、初風、天津風、時津風》、第17駆逐隊《浜風》)が護衛、野分は燃料補給船団に配備されていた。10月25日、南雲機動部隊は無線封止中のため、命令を受けた嵐は艦隊から分離して単艦で東方へ向かい、機動部隊の行動と情勢を発信した。10月26日、アメリカ軍機動部隊艦載機の空襲により空母翔鶴被弾後、4駆司令艦嵐は旗艦翔鶴の通信を代行した。その後、嵐には南雲忠一司令長官や草鹿龍之介参謀長など第三艦隊司令部が移乗。一時的に嵐を南雲機動部隊旗艦とした。損傷した空母2隻(翔鶴、瑞鳳)は駆逐艦2隻(初風、舞風)に護衛されてトラック泊地へ避退。南雲長官は17時30分になって『本職嵐ニ将旗ヲ移揚セリ、嵐ヲ率ヰ二航戦及瑞鶴所在ニ急行ス』を通知して南下を開始した。旗艦の変更が遅れた事、瑞鶴ではなく嵐になった事について関係者は幾つかの回想を残している。中島親孝通信参謀によれば、南雲司令部は秋月型駆逐艦2番艦照月に移乗するつもりだったが、打ち合わせ不備のため照月が離れてしまい、嵐に変更されたという。翌日、嵐は機動部隊(瑞鶴、隼鷹等)と合流、南雲司令部を瑞鶴に送り届けた。 11月2日、損傷艦(翔鶴、瑞鳳、熊野、筑摩)および護衛艦(嵐、野分、秋月、秋雲、浦風、谷風、磯風、浜風)はトラック泊地を出発。翔鶴隊は11月6日に横須賀へ帰投。嵐は8日から18日までドックで修理整備を行う。修理中の11月15日附で渡邉中佐は嵐駆逐艦長職を解かれる(渡邉は12月28日附で陽炎型駆逐艦7番艦初風駆逐艦長)。2代目嵐艦長は、舞鶴海軍工廠で修理中の駆逐艦3隻(大潮、不知火、霞)駆逐艦長を兼務していた杉岡幸七中佐(吹雪型駆逐艦狭霧沈没時艦長等を歴任)となった。 11月21日、第4駆逐隊(嵐、野分)は横須賀を出港して大分回航。23日、陸軍特務艦あきつ丸を護衛して内地を出発し、12月1日ラバウルへ到着した。嵐、野分、有明は外南洋部隊増援部隊に編入されショートランド泊地へ進出、再び『鼠輸送』に従事する。12月3日、田中頼三第二水雷戦隊司令官の指揮下、第二次輸送作戦(親潮、黒潮、陽炎、巻波、長波、江風、涼風、嵐、野分、夕暮)を実施するが、巻波が空襲により損傷した。22時以降ガダルカナル島タサファロング泊地にドラム缶1500個を投入したが、回収されたのは310個だけであった。 12月7日午前11時、駆逐艦11隻(指揮官/第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐:嵐、野分、長波、親潮、黒潮《旗艦》、陽炎、浦風、谷風、江風、涼風、有明)による第三次輸送作戦に参加してショートランド泊地発。午後4時以降の空襲で4駆僚艦「野分」が被弾し航行不能となった。嵐も小破した。野分は長波に曳航され、嵐、有明に護衛されてショートランド泊地へ避退した。それ以外の駆逐隊は揚陸作戦を続行したが、アメリカ軍魚雷艇やアメリカ軍機に妨害され、揚陸を中止してショートランドへ戻った。 なお第三次輸送作戦、第四次作戦に参加した初春型駆逐艦2隻(有明、夕暮)について田中司令官は『夕暮と有明は他艦に比べて速度が出ないので取扱いに困った』と評価している。 詳細は「照月 (駆逐艦)」を参照 ガダルカナル島の戦況は悪化する一方であり、山本五十六連合艦隊司令長官は『今次ノ駆逐艦輸送ニ期待スルトコロ極メテ大ナリ、アラユル手段ヲ講ジ任務達成ニ努メヨ』と激励する。12月11日13時30分、嵐は駆逐艦11隻(指揮官/田中二水戦司令官)による第四次輸送作戦に参加してショートランド発。田中司令官は最新鋭の秋月型駆逐艦照月を旗艦と定め、警戒隊(照月、嵐、長波、江風、涼風)、輸送隊(陽炎、黒潮、親潮、谷風、浦風、有明)という戦力を揃える。だがガダルカナル島揚陸中、警戒隊(長波→嵐→照月の単縦陣)はアメリカ軍魚雷艇の雷撃を受け、被雷した照月は自沈した。田中二水戦司令官は長波に移乗、嵐が照月の救援に当たる。嵐は照月に接舷して乗組員約140名を救助。照月は艦長以下の手により自沈。嵐に移乗できなかった第61駆逐隊司令則満宰次大佐と照月艦長以下156名はガ島へ上陸した。一方、嵐が照月を救援している最中に長波以下他艦はガダルカナル島海域を離脱したため、嵐は単艦で現場を退避、主隊から約6時間以上遅れた午後4時頃にショートランド泊地に到着した。投下されたドラム缶1200個のうち回収されたのは220個にすぎなかったという。 1943年(昭和18年)1月10-11日、第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将指揮下の駆逐艦8隻(黒潮《旗艦》、巻波、江風、嵐、大潮、荒潮、初風、時津風)による第五次輸送が実施された。警戒隊(江風、黒潮、初風、時津風)、輸送隊(嵐、巻波、大潮、荒潮)、待機隊(長波)という区分だった。作戦中、アメリカ軍魚雷艇の攻撃で第16駆逐隊の姉妹艦初風(駆逐艦長渡邉保正中佐)が大破。有賀司令の指揮下、駆逐艦3隻(嵐、江風、時津風)はガダルカナル島からショートランド泊地まで初風を護衛した。同作戦指揮官の第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将は初風を護りきった有賀(4駆司令)と中原義一郎(24駆司令)、3隻(嵐、江風、時津風)を賞賛している。 続いて嵐は第十戦隊司令官木村進少将を指揮官とする駆逐艦9隻(秋月《第十戦隊旗艦》、時津風、嵐、黒潮、谷風、浦風、浜風、磯風、舞風)でガ島輸送作戦を実施した。警戒隊(秋月、黒潮、時津風、嵐、舞風)、輸送隊(谷風、浦風、浜風、磯風)という区分だった。各艦は13日朝までにショートランド泊地に集結、1月14日朝に出撃した。揚陸作戦成功後の15日朝、嵐はガダルカナル島からの帰路でアメリカ軍機の攻撃を受け、航行不能となる。他に谷風駆逐艦長の勝見中佐が戦死、浦風も小破した。有賀司令は第15駆逐隊黒潮による曳航の申し出を断り、第4駆逐隊姉妹艦舞風に嵐を曳航させている。零式水上観測機の護衛も受け、各艦はショートランド泊地へ避退した。なお午後1時30分頃に零観10機がB-17型10機・P-39エアコブラ12機と空戦を行い、5機(6機)喪失と引き替えにP-39を1機撃墜したという。 1月16日、第4駆逐隊司令駆逐艦は嵐から舞風に変更された。1月19日、第十戦隊旗艦秋月がアメリカ潜水艦ノーチラスの雷撃で大破、その際に木村司令官は負傷したため1月21日附で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が第十戦隊司令官に任命された。嵐はトラックで応急修理を行い、2月のガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)に支援隊として参加する。この第二次撤退作戦で第4駆逐隊舞風、第三次撤退作戦で17駆姉妹艦磯風が損傷して長期修理となった。2月13日、第4駆逐隊司令駆逐艦は舞風から嵐に戻った。 作戦終了後の2月15日、第三戦隊司令官栗田健男中将(金剛座乗)を指揮官とする回航部隊が編制される。空母2隻(隼鷹、冲鷹)、第三戦隊(金剛、榛名)、水上機母艦日進、重巡2隻(鳥海、利根)、駆逐艦5隻(第27駆逐隊《時雨》、第31駆逐隊《大波》、第15駆逐隊《黒潮、陽炎》、第4駆逐隊《嵐》)はトラック泊地を出港。だが、悪天候のため航空隊収容不能だった3隻(隼鷹、陽炎、黒潮)のみトラックへ引き返した。19日、4隻(鳥海、冲鷹、嵐、大波)は金剛隊と分離。20日に横須賀到着。同日附で第4駆逐隊司令は有賀幸作大佐から杉浦嘉十大佐に交代した(有賀大佐は3月1日より高雄型重巡洋艦3番艦鳥海艦長)。2月24日、第4駆逐隊司令駆逐艦は嵐から萩風に変更される。嵐水雷長も谷川大尉から宮田敬助大尉に交代。嵐は母港で修理を実施した。
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ソロモン海の戦い
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「浦風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「ソロモン海の戦い」の解説
1942年(昭和17年)8月7日にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸してガダルカナル島の戦いがはじまると、トラック泊地へ進出する。8月18日深夜、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐指揮のもと陽炎型6隻(嵐、萩風、陽炎、浦風、谷風、浜風)は、陸軍一木支隊先遣隊をトラック泊地からガ島へ輸送した。揚陸成功後、ポートモレスビー攻略にともなうニューギニア方面作戦に従事するため第17駆逐隊は嵐、萩風、陽炎と分離し、ラバウルへ帰投した。なお浦風等が送り届けた一木清直大佐以下陸軍兵約900名は、17駆がラバウルに到着した8月21日、イル川渡河戦で全滅した。 詳細は「ラビの戦い」を参照 8月17日附で、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風)は外南洋部隊護衛部隊(指揮官松山光治第十八戦隊司令官)に編入され、第十八戦隊(軽巡洋艦天龍、龍田)等と共に、ニューギニア島東部・ミルン湾のラビ攻略を目指すラビの戦いに加わった。8月24日朝、天龍、龍田、谷風、浦風、浜風および駆潜艇2隻は輸送船2隻(南海丸、幾内丸)を護衛してラバウルを出撃、連合軍機の空襲を受けつつ進撃した。25日夜、ミルン湾への上陸に成功するが、使用した海図が不正確だったため揚陸地点を間違え、上陸した海軍陸戦隊も陸上地図をもっておらず、窮地に陥る。十八戦隊と17駆は対地砲撃をおこなうが、無線での連絡も難しく、効果は不明だった。連合軍機の空襲により大発動艇を全て使用不能とされたため、輸送船から物資を揚陸する手段がなくなる。十八戦隊司令官は龍田、浦風と輸送船団に対しラバウル帰投とその護衛を命じた。8月28日、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は第十八戦隊を基幹としてラビ攻略部隊を編成、兵力を増強する。天龍、谷風、浦風は海軍陸戦隊を乗せた駆逐艦嵐、叢雲、弥生と哨戒艇3隻を護衛してラバウルを出撃。29日夜に到着して上陸を開始し、30日午前1時には帰途についた。このときミルン湾口を警戒していた浦風は脱出を図る小型監視艇を発見、これを撃沈している。 ラビ方面の戦いは完全に失敗し、第17駆逐隊はガダルカナル島の戦いに投入されることになった。8月31日、17駆(谷風、浦風)はショートランド泊地に移動。9月1日、駆逐艦4隻(浦波、磯波、谷風、浦風)でガ島輸送を実施、アメリカ軍機の襲撃で敷波に若干の損傷があった。9月24日、第24駆逐隊司令中原義一郎中佐指揮のもと駆逐艦4隻(海風、江風、涼風、浦風)でガ島輸送を実施する。だがアメリカ軍機の夜間空襲を受け2隻(海風、浦風)が小破。浦風の被害は至近弾により前部に小破口を生じ揚錨機故障、大発動艇放棄、死傷者6名というものだった。作戦は中止され、鼠輸送(東京急行)も月暗期に入る10月上旬まで見合わせることになった。9月26日、第17駆逐隊は外南洋部隊よりのぞかれ、機動部隊に復帰した。 詳細は「南太平洋海戦」を参照 10月下旬の南太平洋海戦における浦風は南雲機動部隊前衛(指揮官阿部弘毅第十一戦隊司令官)に属し、戦艦2隻(比叡、霧島)、重巡3隻(鈴谷、利根、筑摩)、第十戦隊(長良、駆逐艦《秋雲、風雲、巻雲、夕雲、浦風、磯風、谷風》)という編制でアメリカ軍機動部隊艦載機と交戦した。10月26日、米空母ホーネット、エンタープライズより発進した攻撃隊の一部が前衛部隊を襲撃。谷風、浦風は爆弾3発の命中で大破した筑摩を護衛して戦場を離脱、29日にトラック泊地へ帰投した。11月2日、駆逐艦秋月、嵐、舞風、野分、秋雲、浦風、谷風、浜風、磯風は同海戦で損傷した4隻(翔鶴、瑞鳳、熊野、筑摩)を護衛し呉へ帰港した。 11月26日、修理完了し軽巡洋艦阿賀野を護衛して再度ソロモン方面へ進出。12月1日附で駆逐艦照月、浦風は外南洋部隊に編入され、浦風は5日にショートランド泊地に進出する。これはルンガ沖夜戦の戦訓から、連合艦隊が警戒駆逐艦の増強を認めたための措置であった。12月7日、第三次ドラム缶輸送部隊(親潮、黒潮、陽炎、長波、江風、涼風、嵐、野分、浦風、谷風、有明)という戦力でガ島へ向かうが、空襲により野分が大破、嵐、長波《野分曳航》に護衛されて避退した。その他の駆逐艦隊もサボ島周辺でアメリカ軍魚雷艇と敵機に襲撃され、輸送作戦を中止して12月8日朝にショートランドへ戻った。 12月11日の第四次輸送作戦(照月、長波、嵐、親潮、黒潮、陽炎、江風、涼風、谷風、浦風、有明)では秋月型駆逐艦照月(増援部隊指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官座乗)の沈没に遭遇した。その他にもラエ、ムンダへの輸送作戦に従事する。12月16日夕方、浦風は敷設艦津軽を護衛してラバウルを出発する。ムンダ到着後の揚陸中に米潜水艦に雷撃されたため、一部の物資を揚陸できないままラバウルへ帰投した。12月21日、駆逐艦4隻(浦風、巻波、谷風、陽炎)でムンダ輸送を実施、輸送に成功した。 12月25日、米潜水艦シードラゴンに雷撃されて損傷した南海丸を護衛中の駆逐艦卯月は南海丸と衝突して航行不能となった。ラバウルに停泊していた第31駆逐隊(長波)、第27駆逐隊(有明)、第17駆逐隊(谷風、浦風)は急遽出動した。卯月は第27駆逐隊有明に曳航され谷風の護衛下でラバウルへ向かうが、有明もB-24爆撃機の空襲により中破した。そこで浦風が卯月を曳航し、2隻を長波が護衛してラバウルへ帰投した。12月27日、駆逐艦6隻(谷風、浦風、荒潮、磯波、電、夕暮)でニュージョージア諸島バングヌ島ウイックハムへ兵員物資輸送を行う。
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ソロモン海の戦い
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「白露 (白露型駆逐艦)」の記事における「ソロモン海の戦い」の解説
7月中旬、艦隊の編制がかわり第27駆逐隊は第四水雷戦隊に所属する。8月、第27駆逐隊はマーシャル諸島で活動。8月17日のアメリカ軍によるマキン奇襲上陸を受けて「白露」は「時雨」とともに増援の陸戦隊を乗せ翌日トラックを出撃し、8月21日にマキンに到着して陸戦隊を上陸させた。9月2日、アパママを占領。以後、「時雨」と共にガダルカナル島輸送作戦に7回従事。 10月24日、ガダルカナル島米軍ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃に呼応し、日本海軍は陸上支援および脱出米艦隊攻撃のため小規模の艦隊を派遣した。「白露」は第6駆逐隊司令山田勇助大佐の指揮下に入り、第6駆逐隊(暁、雷)と共に突撃隊を編制。他に第二攻撃隊(指揮官:高間四水戦司令官、旗艦秋月、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、由良)、輸送隊(敷設艦津軽、軽巡龍田、27駆《時雨、有明》)等がガダルカナル島ルンガ泊地への突入を企図して行動を開始していた。突撃隊3隻(暁、雷、白露)は25日朝にルンガ泊地への突入に成功、「軽巡洋艦1隻、駆逐艦1隻」撃沈を報告。実際は駆逐艦「ゼイン(英語版)」に対し損傷を与え、艦隊曳船「セミノール(英語版)」、沿岸哨戒艇「YP-284」を撃沈という戦果をあげた。帰途空襲を受けるが3隻とも重大な損傷を受けることはなかった。だが第二攻撃隊はSBDドーントレス急降下爆撃機とB-17型爆撃機の波状攻撃を受け「由良」沈没、「秋月」中破、「五月雨」小破の損害を受けた。四水戦旗艦は「秋月」より「村雨」、続いて「朝雲」に変更された。 その後、11月12日に第三次ソロモン海戦に参加。第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)はガダルカナル島とラッセル諸島間の警戒が任務だったため、挺身艦隊(第十一戦隊:比叡、霧島)の後方を航行しており、大混戦となった第三次ソロモン海戦第一夜戦には参加していない。同夜戦において第2駆逐隊より「夕立」が沈没している。13日、「白露」は第16駆逐隊「雪風」、「照月」、「時雨」、「夕暮」と共同し、第一夜戦で舵故障の損傷を受けた戦艦「比叡」を護衛した。「白露」は機銃掃射で若干の損傷を受けた。午後になり第27駆逐隊は航行不能となった「比叡」の雷撃処分を命じられるが、発射直前に「時雨」に中止命令が出される。実行されたかどうかは不明。 続いて「白露」は一時的に第十八戦隊(司令官松山光治少将)の指揮下に入る。パプアニューギニアのラエに対する輸送作戦参加を命じられ、第27駆逐隊僚艦と分離した。輸送隊は第2駆逐隊司令橘正雄大佐を指揮官とする駆逐艦5隻(春雨、白露、電、磯波、早潮)で編制されていた。11月23日2100分、「白露」以下輸送隊はラバウルを出港し、ラエへ向かった。24日18時以降、輸送隊は米軍機の執拗な夜間空襲を受けて第15駆逐隊の「早潮」が大破、大火災となる。早潮乗組員を各艦で救助したのち、「白露」は「早潮」を砲撃により処分した。輸送作戦も失敗に終わる。 次の任務はブナ輸送作戦であった。第10駆逐隊司令阿部俊雄大佐を指揮官として、駆逐艦4隻(夕雲、巻雲・風雲、白露)は11月28日19時にラバウルを出撃する。進撃中の29日昼間に輸送艦隊はB-17型爆撃機の空襲を受ける。「白露」は直撃弾と至近弾により前部が大破し、船体切断の危機に瀕した。戦死者6名。「巻雲」も至近弾により損傷し、輸送作戦は中止された。次の輸送作戦のため「巻雲」は「白露」に接舷すると便乗陸軍兵を受け取り、「巻雲、風雲」は先行してラバウルへ帰投した。「白露」は「春雨、夕雲」に護衛されて夕刻にラバウル着。投錨できないため「白露」は軽巡洋艦「天龍」に接舷して停泊した。 ラバウルで応急修理をおこなったのち、12月19日同地発、22日トラック泊地帰投。工作艦「明石」で修理を行うなどして、1943年(昭和18年)1月はトラック泊地で待機。1月24日、姉妹艦「春雨」は空母「隼鷹」航空隊基地要員をウエワクへ輸送中に米潜水艦「ワフー」の雷撃で大破、擱座した(2月23日、天津風・浦風・雄島に曳航されトラック着)。2月16日、「白露」は陽炎型「野分(左舷機械のみ使用可能)」と共にトラック泊地を出港して内地へ向かうが、悪天候の中で修理した電気溶接の部分に亀裂が生じてしまう。19日12時、2隻はサイパンに緊急退避。上級司令部の命令で「野分」は先に横須賀へ帰投したので、応急修理を施した「白露」は25日単艦でサイパンを出港する。3月2日佐世保に帰投する。前部船体を切断するなどの修理作業が長崎で7月まで行われた。
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ソロモン海の戦い
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「時雨 (白露型駆逐艦)」の記事における「ソロモン海の戦い」の解説
「ニュージョージア島の戦い」も参照 23日、有明と共にトラックを出発、25日にラバウルに着いた。その日に駆逐艦萩風・嵐とサンタイサベル島レカタ、31日-8月1日は護衛の駆逐艦天霧を加えてブイン及びコロンバンガラ島に輸送し魚雷艇と交戦、天霧がジョン・F・ケネディが艇長の魚雷艇を沈めるなどして撃退した(詳細は天霧参照)。有明はニューブリテン島へ輸送作戦中の7月28日に空襲で沈没した。時雨は萩風、嵐、江風によるコロンバンガラ島輸送を護衛したが、6日夜に米第31.2任務群の駆逐艦6隻からレーダー探知下での奇襲雷撃を受け、3隻が沈没した(ベラ湾夜戦)。警戒艦でありながら艦隊最後尾にいた時雨は面舵で雷撃を避け、魚雷8本を撃って戦場を退避。次発装填後に戻ったが「状況極めて不利」と判断し、沈没艦の乗員や増援部隊の救助を陸上部隊に依頼して自身は救助は行わず、川内と合流してラバウルに帰投した。時雨は米駆逐艦1隻大破を報告したが、実際には戦果はなかった。また増援部隊940名は殆どが溺死し、輸送作戦は完全に失敗した。 米軍は15日、ベララベラ島に上陸した。17日、漣、磯風、浜風と共にラバウルを出港し、ベララベラ島北東で輸送部隊(陸軍兵約290名、海軍兵約130名)と合流した。22日夜に浜風の電探が米艦隊を探知、夜間爆撃を避けるために散開した時に米第41駆逐群の駆逐艦4隻と遭遇し、第一次ベララベラ海戦が勃発した。日本側は2回にわたって魚雷発射を行い、23時40分には戦闘を打ち切ってラバウルへ向かった。日本は時雨が巡洋艦または大型駆逐艦撃沈と報告したが、米側に損害はなかった。揚陸は一部を除いて成功した。続いて時雨など4隻はレカタ撤退とブイン転進作戦(E作戦)に参加。22日はいったん撤退したが、25日からの第2次作戦では川内、駆逐艦漣・松風を陽動として時雨、浜風、磯風で陸戦隊を収容、ラバウルへ撤退した。30日-9月1日には松風・磯風と共にツルブに三度輸送。9月20-21日には松風とブカ島へ輸送した。10月1日、五月雨が第27駆逐隊に編入した。 詳細は「ニュージョージア島の戦い#セ号作戦」を参照 9月28日、五月雨、磯風と共にコロンバンガラ島からブーゲンビル島に陸戦隊を転戦させる「セ号作戦」で第一次作戦の夜襲作戦隊として参加した。輸送は成功したが、米駆逐艦隊の襲撃で大発動艇に損害が出た。10月1日夜に望月を加えて第二次作戦を実行したが、空襲を受けた上に大発動艇の輸送部隊に米駆逐艦6隻(ウォーラー、イートン、コニイ、ラルフ・タルボット、テイラー、テリィ)と魚雷艇が入り乱れ、十分な擁護ができなかった。支援に出撃した駆逐艦9隻に揚塔し3日夜にラバウルに帰投。2回の作戦で12000人の将兵を脱出させた。 詳細は「第二次ベララベラ海戦」を参照 続いてベララベラ島の守備隊をブインへ撤収させることになり、6日早朝に駆逐艦6隻(秋雲、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)でラバウルを出撃した。同日深夜に米第4駆逐部隊(セルフリッジ、シュバリエ、オバノン)と遭遇し第二次ベララベラ海戦が生起した。日本軍は夕雲が沈没、米軍はシュバリエが沈没・セルフリッジ、オバノンが大破したが、約600名の撤収に成功した。8日、五月雨とニューブリテン島ツルブへ輸送を行った。帰路に湾外で米魚雷艇部隊の襲撃を受けたが撃退し、時雨の砲撃で魚雷艇1隻が転覆した。24日、五月雨、白露とニューブリテン島イボキに輸送、時雨は爆撃で損傷した。 詳細は「ブーゲンビル島沖海戦」を参照 11月1日に米軍がブーゲンビル島に上陸し、重巡妙高・羽黒、川内、駆逐艦5隻(文月、水無月、時雨、五月雨、白露)が出動したが米艦隊を発見できず、ラバウルへ帰投した。日本軍は同島への逆上陸作戦を計画し、大森仙太郎少将が主隊(妙高、羽黒)、第一警戒隊(川内、時雨、五月雨、白露)、第二警戒隊(軽巡洋艦阿賀野、駆逐艦(長波、初風、若月))を率いる襲撃部隊が編制された。逆上陸は中止となったが、襲撃部隊は米輸送船団を攻撃するため同島に向かい、2日未明に米第39任務部隊と遭遇した。 「時雨」の見張りが艦影4つを発見し、0時45分に「時雨」は敵発見を報じた。続いて「川内」でも敵を確認し、戦闘が始まった。「時雨」は魚雷8本を発射後、「川内」と衝突しかけた。その後「川内」は被弾、航行不能となり、「川内」の第三水雷戦隊司令官伊集院少将より「時雨」は「川内」の元へ近寄れとの電報が届いたが、原司令は今行けば「時雨」も撃沈されるとして応じなかった。「時雨」は単独で攻撃の機会をうかがっていたが、単独では危険であり、また味方の妨害にもなるとの判断から1時45分頃に「妙高」、「羽黒」と合流し、その後避退。9時17分に「妙高」、「羽黒」、「時雨」などはラバウルに帰投した。 この海戦で川内と初風が沈没、羽黒、白露、五月雨が損傷した。ラバウルに帰投した第27駆逐隊3隻の戦果は大型駆逐艦2隻撃沈と認定されたが、米側の雷撃による被害は駆逐艦フートの艦尾大破にとどまった。 11月5日、ラバウルは米第38任務部隊の空襲を受け、第二艦隊の旗艦愛宕など巡洋艦が多数損傷した(ラバウル空襲)。時雨は撃墜7機を報告した。6日、軽巡夕張と共にブカ島に輸送。時雨の舵が故障したが輸送は成功した。8日、輸送船御嶽山丸、東京丸を護衛しラバウルを出港した。空襲を受けたが、時雨は回避運動の代わりに直進して攻撃の裏をかいた。10日、東京丸が米潜水艦スキャンプの雷撃を受け航行不能になった。時雨は東京丸の救難を行った後、救援の駆逐艦初月と交代し11日にトラックに到着した。12日、時雨と白露は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してトラックを出港、17日に佐世保に到着した。30日、第27駆逐隊(時雨、白露、五月雨)に春雨が編入し4隻体制となった。時雨の奮闘は昭和天皇に報告された。 12月13日、艦長に西野繁少佐が就いた。18日に修理が完了すると呉に移動し、妙高、羽黒、利根、白露と共にトラック泊地に陸軍兵と物資を輸送する戊号輸送作戦に参加した。22日に時雨の機関部に異状が発生し、他の4隻は23日に出港した。時雨は24日に出発し合流したが同日夜に漁船と衝突し、呉に引き返した。修理は1日で完了した。29日、駆逐隊司令は白濱政七大佐に交代した。同日、燧灘で春雨が合流した。時雨と春雨、 駆逐艦沖波・朝霜は戦艦山城を護衛して呉を出発、31日に横須賀に到着した。
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