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霍峻Huo Jun

カクシュン
クワクシユン

(180~219
梓潼太守・裨将軍

字は仲邈南郡枝江の人。

兄霍篤は郷里数百人の私兵集めていたが、荊州劉表は霍篤が死ぬと霍峻にその統率命じた劉表没すると霍峻は兵を率いて劉備帰服し、中郎将任じられた。

益州平定にあたって漢中への押さえとして葭萌関残り漢中張魯将軍楊帛遣して霍峻を味方誘ったが、霍峻は「私の首を取ることはできても、この城は奪い取らせないぞ」と拒絶し、揚帛は退却した。さらに劉璋将軍扶禁・向存が一万余人軍勢率いて遡上し、霍峻を包囲すること一年以上になった。城中にはわずか数百人の軍勢しかなかったが、敵勢油断見計らって出撃し、向存の首を斬った。

益州平定されると霍峻は軍功評価され広漢郡分割して梓潼郡設け、霍峻は梓潼郡太守・裨将軍任命された。官に就いて三年、霍峻は四十歳逝去した。遺体成都城に送られ埋葬されたが、劉備彼の死を大変惜しみ、自ら彼の葬儀参列したそのまま劉備は霍峻の墓の側で宿泊した人々はこれを名誉だと讃えた。

参照】霍篤 / 向存 / 張魯 / 扶禁 / 楊帛 / 劉璋 / 劉備 / 劉表 / 益州 / 葭萌関 / 漢中郡 / 荊州 / 広漢郡 / 枝江侯国 / 梓潼郡 / 成都県 / 南郡 / 閬 / 将軍 / 太守 / 中郎将 / 裨将軍 / 牧


霍峻

(Huo Jun から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 02:37 UTC 版)

霍峻
後漢
梓潼太守・裨将軍
出生 光和3年(180年
荊州南郡枝江県
死去 建安24年(219年
益州梓潼郡
拼音 Huò Jùn
仲邈
主君 劉表劉備
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霍 峻(かく しゅん、180年 - 219年)は、中国後漢末期の武将。仲邈荊州南郡枝江県の人。兄は霍篤。子は霍弋

事跡

兄の霍篤の死後、劉表の命により霍峻はその私兵を受け継いだ。建安13年(208年)に劉表が死去すると劉備に仕え、中郎将に任命された。

建安17年(212年)、劉備の入蜀に際し、霍峻は広漢郡の葭萌城の守備を命じられた。この時、張魯配下の楊帛から寝返りの誘いがあったが、これを断ったという。その後、劉璋軍の扶禁・向存ら一万余の軍勢に城を包囲されたが、1年に亘り守り通した。そして数百の軍勢の中から精鋭を選抜し、城外へ出撃して扶禁・向存を破り、向存を斬った。この功績により建安22年(217年)、梓潼太守兼裨将軍に任じられた[1]

建安24年(219年)、在職中に40歳で死去し、遺体は成都に葬られた。劉備はその死を大変悲しみ、葬儀の際は墓の側で宿泊したという。

物語中の霍峻

小説『三国志演義』では、劉備の入蜀の際に初登場する。この時、劉璋から劉備に鞍替えした孟達の推薦で、孟達と共に葭萌関(正史では葭萌城)を守った。益州平定後も孟達と共に葭萌関を守り、張郃が襲来すると霍峻は籠城を主張したが、孟達は出撃し大敗している。その後、援軍として黄忠厳顔の2老将が派遣されてくると、霍峻は孟達と共に諸葛亮の不手際を笑ったが、黄忠・厳顔の活躍で魏軍は撃退された。

脚注

  1. ^ 華陽国志』漢中志「 (建安)二十二年、分広漢置梓潼郡、以峻為太守」

参考文献



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