霍峻Huo Jun
兄霍篤は郷里で数百人の私兵を集めていたが、荊州牧劉表は霍篤が死ぬと霍峻にその統率を命じた。劉表が没すると霍峻は兵を率いて劉備に帰服し、中郎将に任じられた。 益州平定にあたっては漢中への押さえとして葭萌関に残り、漢中の張魯が将軍楊帛を遣して霍峻を味方に誘ったが、霍峻は「私の首を取ることはできても、この城は奪い取らせないぞ」と拒絶し、揚帛は退却した。さらに劉璋の将軍扶禁・向存が一万余人の軍勢を率いて閬水を遡上し、霍峻を包囲すること一年以上になった。城中にはわずか数百人の軍勢しかなかったが、敵勢の油断を見計らって出撃し、向存の首を斬った。 益州が平定されると霍峻は軍功を評価され、広漢郡を分割して梓潼郡を設け、霍峻は梓潼郡太守・裨将軍に任命された。官に就いて三年、霍峻は四十歳で逝去した。遺体は成都城に送られて埋葬されたが、劉備は彼の死を大変惜しみ、自ら彼の葬儀に参列した。そのまま劉備は霍峻の墓の側で宿泊した。人々はこれを名誉だと讃えた。 【参照】霍篤 / 向存 / 張魯 / 扶禁 / 楊帛 / 劉璋 / 劉備 / 劉表 / 益州 / 葭萌関 / 漢中郡 / 荊州 / 広漢郡 / 枝江侯国 / 梓潼郡 / 成都県 / 南郡 / 閬水 / 将軍 / 太守 / 中郎将 / 裨将軍 / 牧 |
霍峻
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 02:37 UTC 版)
霍峻 | |
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後漢 梓潼太守・裨将軍 |
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出生 | 光和3年(180年) 荊州南郡枝江県 |
死去 | 建安24年(219年) 益州梓潼郡 |
拼音 | Huò Jùn |
字 | 仲邈 |
主君 | 劉表→劉備 |
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霍 峻(かく しゅん、180年 - 219年)は、中国後漢末期の武将。字は仲邈。荊州南郡枝江県の人。兄は霍篤。子は霍弋。
事跡
兄の霍篤の死後、劉表の命により霍峻はその私兵を受け継いだ。建安13年(208年)に劉表が死去すると劉備に仕え、中郎将に任命された。
建安17年(212年)、劉備の入蜀に際し、霍峻は広漢郡の葭萌城の守備を命じられた。この時、張魯配下の楊帛から寝返りの誘いがあったが、これを断ったという。その後、劉璋軍の扶禁・向存ら一万余の軍勢に城を包囲されたが、1年に亘り守り通した。そして数百の軍勢の中から精鋭を選抜し、城外へ出撃して扶禁・向存を破り、向存を斬った。この功績により建安22年(217年)、梓潼太守兼裨将軍に任じられた[1]。
建安24年(219年)、在職中に40歳で死去し、遺体は成都に葬られた。劉備はその死を大変悲しみ、葬儀の際は墓の側で宿泊したという。
物語中の霍峻
小説『三国志演義』では、劉備の入蜀の際に初登場する。この時、劉璋から劉備に鞍替えした孟達の推薦で、孟達と共に葭萌関(正史では葭萌城)を守った。益州平定後も孟達と共に葭萌関を守り、張郃が襲来すると霍峻は籠城を主張したが、孟達は出撃し大敗している。その後、援軍として黄忠・厳顔の2老将が派遣されてくると、霍峻は孟達と共に諸葛亮の不手際を笑ったが、黄忠・厳顔の活躍で魏軍は撃退された。
脚注
参考文献
魏志 (魏書) |
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蜀志 (蜀書) |
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呉志 (呉書) |
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