音楽性の転換と成功への道とは? わかりやすく解説

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音楽性の転換と成功への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:23 UTC 版)

浜田省吾」の記事における「音楽性の転換と成功への道」の解説

1980年10月21日6thアルバムHome Boundリリースそれまで職業作家的な曲作りから、本格的ロック音楽性変化する重要作。念願でもあった初の海外レコーディング作品で、ニッキー・ホプキンスTOTOスティーヴ・ルカサーなどアメリカ代表する一流ミュージシャン参加したセールス的にはそれほどでもなかったが、自身方向性見つけ出す1980年代入り急速に社会派ロック路線変更してゆく。 1980年1月8日から9月30日まで、文化放送深夜番組『セイ!ヤング』月曜日担当DJ務める。同年10月にはツアー先の沖縄で、母が脳閉塞倒れ危篤態と知らせを受ける。なんとか一命取り留めたものの半身不随患い、このときの気持ちを「悲しみは雪のように」という楽曲込めている。 1981年9月21日7thアルバム愛の世代の前にリリース日本武道館コンサートに向け、いつもに増して気合を入れて作成当時日本武道館日本ロッカーたちにとってのステイタスシンボル。「武道館で演る、成功失敗関係ない。そこで演る事が大事なんだ、俺には」と早くから悲愴決意持って宣言しなければならない程、当時浜田動員力では武道館は高いハードルだった。武道館コンサート見据え急遽レコード会社要請制作することになったアルバムは、劇的な化学反応起こし結晶したオリコン最高位12位だったが、1992年テレビドラマ愛という名のもとに』の主題歌として「悲しみは雪のように」が使用され原曲収録している本作リバイバル・ヒット同年再発CD盤がオリコンチャート最高2位獲得し14連続トップ10ランクイン年間チャートでも19位という大ヒット記録し1996年時点累計売上122万枚アナログ盤CD・カセット合わせた総計)。 1982年1月12日日本武道館での初コンサート開催地方イベンターアイデアで、当時浜田動員力では無謀とまで言われたが、結果即完売で大成功に終わる。この頃はまだ「風を感じて」の一発屋のようなイメージ強かったが、武道館成功によって大きな注目を浴びる同年2月25日そのとき模様収録したライブ・アルバムON THE ROAD』を発売し、初のトップ10入り記録。これ以降コンサートツアータイトルを「ON THE ROAD」とする。 1982年11月21日6thアルバムPROMISED LAND 〜約束の地リリースオリコン最高位第4位。タイトル当時愛読していたロバート・B・パーカー小説題名からの拝借ジャケット写真は、浜田核弾頭前に佇むという思い切ったもの。「僕と彼女と週末に」はラブソング環境問題隠した異様な楽曲。「自分のなかでは頂点に立つアルバム」と話し父親葬儀中に入れた。 1983年コンサート回数115回で、前年大川栄策抜きトップに。大川が「さざんかの宿」の大ヒットテレビ出演増えコンサート回数3分の1以下に減ったためで、「これといったシングルヒットもないのに、コンサート観客動員数日本一シンガー・ソングライター」などと芸能誌でも取り上げられた。当時ヒット曲がないのにコンサートお客が入るということは有り得なかったため、不思議がられての取り上げられであった1983年2月13日2月15日渋谷公会堂3DAYは、渋谷公会堂が“ロックの殿堂”と呼ばれるようになった切っ掛けといわれる1980年代毎年のように年間100本近いコンサートツアー続けていく。 一方で所属事務所であったホリプロダクションとの間で音楽性やコンサート・ビジネスに対す考え方違い表面化し浜田自ら堀威夫社長にかけあい1983年4月1日独立音楽事務所Road&Sky」を設立する事務所名は浜田敬愛するジャクソン・ブラウン曲名The Road And The Sky」から付けられている。長らく浜田個人事務所であったが、1990年代以降尾崎豊所属は約1年程で個人事務所アイソトープ設立し独立)、三浦知良スピッツ斉藤和義らが所属する1983年8月13日福岡海の中道海浜公園で初のワンマン野外コンサートA PLACE IN THE SUN」では25,000人を動員独立最初一大イベント無事に成功させる翌年1984年4月29日には2回目となる「A PLACE IN THE SUN」を横浜スタジアム開催している。ただし、この横浜スタジアムでの公演はあまり良い印象ないようで、これ以降スタジアム・ライブは開催されていないこの頃からレコード・セールスやライブ観客動員安定してくる。アルバムコンスタント数十万枚売り上げライブ・チケット完売続いていく。 1984年10月21日発売した初のセルフプロデュースアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』がオリコン自己最高位第2位収録曲MONEY」は、代表曲として知られるが、発表当時日本の楽曲で"金"や"セックス"を直接的にテーマに扱うのは極めて珍しかった1985年5月22日代表的なバラードもうひとつの土曜日」をB面配した18thシングルLONELY-愛という約束事リリース過去最高となる16位。 1985年7月27日28日つま恋多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「ONE LAST NIGHT in つま恋」で愛奴再結成され、「ひらひら」「野の仏」「シンシア」の3曲で久々にドラムを叩く。その際拓郎から「浜田、前よりドラム上手くなったな」と言われる1986年9月4日発売され2枚組アルバムJ.BOY』がソロデビュー10年目にして初のオリコン・アルバムチャート第1位(4週連続通算5週)を獲得名実共に日本の音楽シーン代表するトップ・アーティストへと成長する父親息子成功見て翌年の「ON THE ROAD '86 "I'm a J.BOY"」ツアー終了後1987年4月30日に癌のため死去父親闘病生活逝去といった出来事は、浜田音楽活動にも大きな影響及ぼしている。 1988年3月16日1年半ぶりの新作FATHER'S SON』を発売。『FATHER'S SON』には、自身ミュージシャンとして父親としてのアメリカアメリカ強姦されて生まれた私生児という意味を含んだもの。その後、ほぼ1年間をかけて100本のツアーをこなす。同年8月20日静岡県浜名湖渚園での野外コンサートA PLACE IN THE SUN at 渚園」では52,000人を動員当時男性ソロ・アーティスト動員記録となったツアー終了後1989年5月21日、初となる映像作品ON THE ROAD "FILMS"』を発売。この時のオープニング曲A PLACE IN THE SUN 」は、ヤング・ラスカルズ・バージョンである。その後しばらく音楽活動から離れ楽曲制作ツアー行わず休養に入る。

※この「音楽性の転換と成功への道」の解説は、「浜田省吾」の解説の一部です。
「音楽性の転換と成功への道」を含む「浜田省吾」の記事については、「浜田省吾」の概要を参照ください。

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