音楽性の転換と成功への道
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「浜田省吾」の記事における「音楽性の転換と成功への道」の解説
1980年10月21日、6thアルバム『Home Bound』リリース。それまでの職業作家的な曲作りから、本格的ロックに音楽性が変化する重要作。念願でもあった初の海外レコーディング作品で、ニッキー・ホプキンスやTOTOのスティーヴ・ルカサーなどアメリカを代表する一流ミュージシャンが参加した。セールス的にはそれほどでもなかったが、自身の方向性を見つけ出す。1980年代に入り、急速に社会派ロックに路線変更してゆく。 1980年1月8日から9月30日まで、文化放送の深夜番組『セイ!ヤング』で月曜日担当のDJを務める。同年10月にはツアー先の沖縄で、母が脳閉塞で倒れ危篤状態との知らせを受ける。なんとか一命は取り留めたものの半身不随を患い、このときの気持ちを「悲しみは雪のように」という楽曲に込めている。 1981年9月21日、7thアルバム『愛の世代の前に』リリース。日本武道館コンサートに向け、いつもに増して気合を入れて作成。当時の日本武道館は日本のロッカーたちにとってのステイタスシンボル。「武道館で演る、成功も失敗も関係ない。そこで演る事が大事なんだ、俺には」と早くから悲愴な決意を持って宣言しなければならない程、当時の浜田の動員力では武道館は高いハードルだった。武道館コンサートを見据え、急遽レコード会社の要請で制作することになったアルバムは、劇的な化学反応を起こし、結晶した。オリコン最高位12位だったが、1992年にテレビドラマ『愛という名のもとに』の主題歌として「悲しみは雪のように」が使用され、原曲を収録している本作もリバイバル・ヒット。同年、再発CD盤がオリコンチャート最高2位を獲得し、14週連続でトップ10にランクイン。年間チャートでも19位という大ヒットを記録し、1996年時点で累計売上は122万枚(アナログ盤・CD・カセットを合わせた総計)。 1982年1月12日、日本武道館での初コンサートを開催。地方のイベンターのアイデアで、当時の浜田の動員力では無謀とまで言われたが、結果は即完売で大成功に終わる。この頃はまだ「風を感じて」の一発屋のようなイメージが強かったが、武道館の成功によって大きな注目を浴びる。同年2月25日、そのときの模様を収録したライブ・アルバム『ON THE ROAD』を発売し、初のトップ10入りを記録。これ以降はコンサートツアーのタイトルを「ON THE ROAD」とする。 1982年11月21日、6thアルバム『PROMISED LAND 〜約束の地』リリース。オリコン最高位第4位。タイトルは当時愛読していたロバート・B・パーカーの小説の題名からの拝借。ジャケット写真は、浜田が核弾頭の前に佇むという思い切ったもの。「僕と彼女と週末に」はラブソングに環境問題を隠した異様な楽曲。「自分のなかでは頂点に立つアルバム」と話し、父親の葬儀で棺の中に入れた。 1983年はコンサート回数115回で、前年の大川栄策を抜きトップに。大川が「さざんかの宿」の大ヒットでテレビ出演が増え、コンサート回数が3分の1以下に減ったためで、「これといったシングルヒットもないのに、コンサート観客動員数日本一のシンガー・ソングライター」などと芸能誌でも取り上げられた。当時はヒット曲がないのにコンサートでお客が入るということは有り得なかったため、不思議がられての取り上げられ方であった。 1983年2月13日~2月15日の渋谷公会堂3DAYは、渋谷公会堂が“ロックの殿堂”と呼ばれるようになった切っ掛けといわれる。 1980年代は毎年のように年間100本近いコンサートツアーを続けていく。 一方で、所属事務所であったホリプロダクションとの間で音楽性やコンサート・ビジネスに対する考え方の違いが表面化し、浜田自ら堀威夫社長にかけあい、1983年4月1日に独立。音楽事務所「Road&Sky」を設立する。事務所名は浜田が敬愛するジャクソン・ブラウンの曲名「The Road And The Sky」から付けられている。長らく浜田の個人事務所であったが、1990年代以降は尾崎豊(所属は約1年程で個人事務所アイソトープを設立し独立)、三浦知良、スピッツ、斉藤和義らが所属する。 1983年8月13日、福岡・海の中道海浜公園で初のワンマン野外コンサート「A PLACE IN THE SUN」では25,000人を動員。独立後最初の一大イベントを無事に成功させる。翌年1984年4月29日には2回目となる「A PLACE IN THE SUN」を横浜スタジアムで開催している。ただし、この横浜スタジアムでの公演はあまり良い印象がないようで、これ以降スタジアム・ライブは開催されていない。 この頃からレコード・セールスやライブの観客動員が安定してくる。アルバムもコンスタントに数十万枚を売り上げ、ライブ・チケットも完売が続いていく。 1984年10月21日に発売した初のセルフプロデュースアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』がオリコン自己最高位第2位。収録曲「MONEY」は、代表曲として知られるが、発表当時は日本の楽曲で"金"や"セックス"を直接的にテーマに扱うのは極めて珍しかった。 1985年5月22日、代表的なバラード「もうひとつの土曜日」をB面に配した18thシングル「LONELY-愛という約束事」リリース。過去最高となる16位。 1985年7月27日〜28日、つま恋多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「ONE LAST NIGHT in つま恋」で愛奴が再結成され、「ひらひら」「野の仏」「シンシア」の3曲で久々にドラムを叩く。その際、拓郎から「浜田、前よりドラム上手くなったな」と言われる。 1986年9月4日に発売された2枚組アルバム『J.BOY』がソロデビュー10年目にして初のオリコン・アルバムチャート第1位(4週連続、通算5週)を獲得。名実共に日本の音楽シーンを代表するトップ・アーティストへと成長する。父親は息子の成功を見て、翌年の「ON THE ROAD '86 "I'm a J.BOY"」ツアーの終了後の1987年4月30日に癌のため死去。父親の闘病生活や逝去といった出来事は、浜田の音楽活動にも大きな影響を及ぼしている。 1988年3月16日、1年半ぶりの新作『FATHER'S SON』を発売。『FATHER'S SON』には、自身ミュージシャンとして父親としてのアメリカ、アメリカに強姦されて生まれた私生児という意味を含んだもの。その後、ほぼ1年間をかけて100本のツアーをこなす。同年8月20日の静岡県浜名湖・渚園での野外コンサート「A PLACE IN THE SUN at 渚園」では52,000人を動員。当時の男性ソロ・アーティストの動員記録となった。ツアー終了後の1989年5月21日、初となる映像作品『ON THE ROAD "FILMS"』を発売。この時のオープニング曲「A PLACE IN THE SUN 」は、ヤング・ラスカルズ・バージョンである。その後しばらく音楽活動から離れ、楽曲制作もツアーも行わず休養に入る。
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