阪神復帰
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2003年から古巣の阪神に復帰し、中日時代の3×2=6の語呂合わせから背番号32を付けた。同年は、持ち前の抜群の守備力で同年のリーグ優勝に貢献した。阪神復帰時は試合終盤の21時頃に守備固めで出場する機会が多かったことから、ファンや実況中継では「9時に久慈」と呼ばれていた。 久慈が中日に在籍していた時期と、阪神に復帰した2003年の監督であった星野仙一は、久慈の守備能力とともに指導者としての資質を高く評価。 2005年にも阪神から、次期指導者育成の一環として、二軍コーチへの就任を打診された。しかし、現役続行を希望する久慈がこの打診を拒否したため、球団は久慈の意思を尊重したうえで自由契約にした。その後は合同トライアウトに参加したが獲得球団がなく、2006年に入って引退を決意した。 最後に出場した試合は2005年の日本シリーズ(対千葉ロッテマリーンズ)の第4戦、9回に一塁の代走として出場したが、矢野輝弘の送りバントが三塁手への小飛球となり、飛び出した本人も一塁へ戻れず併殺となった。
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阪神復帰
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阪神では、渡米前のチームメイトだった金本知憲が、2015年10月17日に一軍監督へ就任。金本は監督就任の直後に藤川へ接触するとともに、球団として復帰を受け入れる姿勢を改めて示した。ヤクルトも水面下での交渉で藤川サイドに2年契約を提示していたが、条件面などで折り合いが付かなかったことから、藤川は阪神への復帰を決断。11月14日には、阪神との入団契約で合意に達したことが球団から発表された。契約期間は2年で、期間中の年俸総額は推定4億円。同月24日には、球団と正式に契約を結んだ後に、入団記者会見で背番号18の付いたユニフォーム姿を披露した。 首脳陣は藤川の復帰が決まった時点で、2014年から藤川の渡米前の背番号(22)を着用していたクローザー・呉昇桓の残留を前提に、藤川へ先発陣の一角を担わせることを構想。当時一軍の投手コーチだった香田勲男も、藤川に対して先発向けの調整を求めた。ちなみに金本は、藤川の役割について、「先発の準備をしておけば途中から中継ぎにいける(転向できる)。中継ぎの準備しかしていなかったら、先発(への転向)はしんどい」と説明している。 もっとも、阪神球団では、2015年12月で呉との残留交渉が決裂(詳しい経緯は呉昇桓を参照)。藤川自身は、この時点で、先発以外の役割も担う姿勢を示していた。球団では後に、マルコス・マテオや、カブス時代のチームメイトであったラファエル・ドリスを呉の後任クローザー候補として獲得している。 2016年には、先発投手としての調整を春季キャンプ以降も継続。オープン戦では、3月6日の対巨人戦(甲子園)でNPB復帰後初登板を果たすと、先発でチーム最多の2勝を挙げた。公式戦では、中日との開幕カード第3戦(3月27日・京セラドーム大阪)で、先発投手としてNPB復帰後初の公式戦登板。4月3日の対DeNA戦(横浜)にも先発すると、6回を2被安打無失点という好投で、NPB復帰後初勝利を挙げた。また、NPBでは2003年9月19日の対巨人戦(東京ドーム)以来、自身4580日ぶりの先発勝利であった。しかし、14年ぶりの甲子園での先発登板となった4月10日の対広島戦で、自己ワーストの7失点と復帰後初黒星を記録。結局、5試合の先発登板で1勝2敗、防御率6.12と振るわなかったため、5月中旬から再び救援投手に転向。同月18日の対中日戦(甲子園)では、本来のクローザーであるマテオやセットアッパーのドリスが体調不良でベンチ登録を外れたことから、1点リードの9回表に復帰後初めてクローザーとして登板。NPBでは2012年9月15日の対巨人戦(東京ドーム)以来のセーブを挙げた。さらに、ドリスが登録を抹消された4月19日の対中日戦(甲子園)でも、同点で迎えた9回表に登板。復帰後初の連投であったが、チームが9回裏にサヨナラ勝ちを収めたことによって、復帰後初の救援勝利を記録した。7月26日の対ヤクルト戦(甲子園)では、8回表に登板すると、大引啓次からの三振によってNPB/MLB通算1000奪三振を達成した。なお、救援投手としては38試合に登板。チーム事情に応じてセットアッパーやクローザーを担いながら、甲子園で16登板試合連続無失点を記録したほか、4救援勝利(4敗)、3セーブ、10ホールド、救援防御率3.58という成績でシーズンを終えた。 2017年には、背番号を復帰前の22へ戻すとともに、セットアッパーとしてレギュラーシーズンをスタート。4月6日の対ヤクルト戦(京セラドーム大阪)では、延長10回表からの救援登板で2イニングを無失点に抑えると、原口文仁のサヨナラ本塁打によってシーズン初勝利を挙げた。また、この救援勝利によってNPB公式戦での通算HPが155に達し、ウィリアムスの持つ球団記録(154HP)を更新した。同月中旬以降は桑原謙太朗がセットアッパーに定着したことなどから、点差の開いた展開やビハインドの局面での登板機会が増加。この年のセ・パ交流戦最初の試合であった5月30日の対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)では、8点リードの9回裏に登板すると、先頭打者・角中勝也の見逃し三振によってNPB史上146人目のNPB一軍公式戦通算1000奪三振を達成。所要イニングは771回2/3で、野茂英雄による従来の最短記録(871回)を大きく下回った。レギュラーシーズンでは、一軍公式戦52試合の登板で、3勝無敗、6ホールドを記録。前述した起用法の影響で2004年以来13年ぶりにセーブを記録できなかったものの、防御率は2.22で、WHIPも前年から大幅に向上した。 2018年には、レギュラーシーズンの開幕から、主に中継ぎで登板。セ・パ交流戦の期間中からは、一軍の救援陣で戦線離脱者が相次いでいたことを背景に、セットアッパーやクローザーも務めた。6月16日の対楽天戦(楽天生命パーク)では、1点リードの9回裏に急遽クローザーとして登板すると、無失点で凌いだ末に公式戦2年ぶりのセーブを記録した。7月21日の対DeNA戦(京セラ)7回表には、宮﨑敏郎から見逃しで三振を奪ったことによって、救援登板では球団史上初めてのNPB一軍公式戦通算1000(先発登板を含めれば1093)奪三振を記録。9月5日の対広島戦(マツダ)では、球団史上最多の一軍公式戦通算701試合登板を達成した。球団史上最長の14連戦が見込まれていた9月下旬に、右肘痛で戦線離脱を離脱。シーズン全体では、自責点が付かない場面での救援失敗も多く、「勝利の方程式」への再定着までには至らなかった。それでも、前年を上回る53試合に登板。150km/h台の球速を再び連発するようになったストレートを武器に、5勝3敗2セーブ21ホールド、防御率2.32という成績を残した。シーズン終了後の契約更改では、この年に二軍監督を務めた矢野が一軍監督へ就任したことを背景に、クローザーへの本格復帰に挑戦する意向を明かしている。 2019年には、オープン戦からコンディションが上がらないまま、中継ぎ陣の一角として開幕を迎えた。開幕後も不調で、4月6日の対広島戦(マツダ)で1イニング2本塁打を打たれるなど精彩を欠いたため、翌7日から自身の希望で二軍調整。その一方で、一軍へ再び昇格した4月27日の対中日戦(ナゴヤドーム)から6月11日の対福岡ソフトバンクホークス戦(ヤフオク!ドーム)まで18試合連続無失点を記録した。その間には、5月8日の対ヤクルト戦(神宮)で通算142ホールドの球団記録を記録。6月11日の対ソフトバンク戦で通算のホールド数が150に達したことによって、「同一投手による150セーブ・150ホールド」というNPB史上初の記録を樹立した。オールスターゲームにも、セ・リーグの監督推薦選手として7年ぶりに出場。甲子園での第2戦(7月13日)で9回表から登板すると、オール直球で三者凡退に抑えた。ヤンガービス・ソラーテ内野手が入団した7月には、当時不調だったドリスが外国人枠との兼ね合いで登録を抹消された26日からクローザーに再転向。当初はドリスが一軍へ復帰するまでの暫定措置だったが、実際には転向後に好投を続けたため、ドリスの復帰後もシーズン終了までクローザーを務めたほか、8月31日の対巨人戦(甲子園)で通算235セーブ(当時のNPB現役投手最多記録)を達成した。レギュラーシーズン全体では、4勝1敗16セーブ23ホールド、防御率1.77、セーブ率100%、奪三振率13.34という好成績で、シーズン最終盤の6連勝とクライマックスシリーズ(CS)進出に貢献。また、(カブス時代の2セーブを含めた)通算のセーブ数が243にまで達したことによって、名球会入りの基準の1つである「(MLBを含めた)公式戦通算250セーブ」のクリアを射程圏内に収めた。CSでも、DeNAとのファーストステージ、巨人とのファイナルステージに2試合ずつ登板すると、いずれも無失点で凌いだ。
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