近代における華族制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:07 UTC 版)
「華族」も参照 一連の複雑な身分制度にとって大きな転換期となったのは、明治維新である。1868年(明治2年)の王政復古で新政府が発足した後、1869年(明治2年)の版籍奉還により、かつての大名が持っていた所領は天皇に奉還され、旧大名は知藩事として処遇されたが、段階的に各大名家の統治機構を中央政府の下に吸収し、1871年(明治4年)の廃藩置県により藩は廃止されて国直轄の県となった。明治政府は江戸時代以前の身分制度を四民平等の下で廃止する一方、1869年7月25日(明治2年6月17日)、太政官達「公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す」により華族制度を創設し、代々天皇に仕えた公家と、三百諸侯として全国に割拠した大名を天皇の藩屏に組み込んだ。 1877年(明治10年)には、民事裁判上勅奏任官華族喚問方(司法省達)が交付され、華族は刑事裁判の当事者であっても出廷の義務がない(華族家人職員に出廷を代理させることができる)ことが定められた。 1884年(明治17年)7月7日、明治天皇の華族授爵ノ詔勅、また宮内卿伊藤博文の華族令(宮内省達無号)が公布され五爵という概念が創設されたが、この2法規は爵の種別までは規定していない。 華族授爵の詔勅朕惟ふに華族勲冑は国の瞻望なり 宜しく授くるに榮爵を以てし用て寵光を示すへし文武諸臣中興の偉業を翼賛し國に大勞ある者宜しく均しく優列に陞し用て殊典を昭かにすへし玆に五爵を叙て其有禮を秩す卿等益す爾の子孫をして世々其の美を濟さしめよ — 柴田勇之助、『明治詔勅全集』「華族授爵の詔勅」(皇道館事務所、1907年(明治40年))NDLJP:759508/284 華族に列せられていた元公卿・元諸侯等と国家功労者の家の戸主に与えられた公・侯・伯・子・男の五爵が法文の中に現われるのは、1886年(明治19年)の華族世襲財産法の中である。この法律により華族は差押ができない世襲財産を設定することができるようになった。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、1909年(明治42年)時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない(特に男爵は少なく7%)。 明治憲法制定により貴族院が設置されると、その議員の種別として華族議員が設置された(ほかに皇族議員と勅任議員がある)。公侯爵の爵位保有者は30歳以上になると全員が終身の貴族院議員に列した。伯子男爵の爵位保有者は同爵位者の間での連記・記名投票選挙(選挙権は成年、被選挙権は30歳以上に与えられる。選挙は費用を含めて同爵者間の自治に委ねられており、選挙運動の取り締まりもない。当選者は手続きなしで自動的に貴族院議員となる)によって1/5程度(伯爵は18人、子爵男爵はそれぞれ66人)が任期7年の貴族院議員となる。公侯爵議員は公卿や大藩大名の子孫や国家功労者の2代目などが多かったので、貴族院での活躍はあまり見られなかった。本会議出席状況すら十分ではなく、特に現役陸海軍軍人である公侯爵は皇族に準じて出席しないのが慣例になっていた。そのため大正時代の政治課題の一つになっていた「華族議員の弊害」という問題は主に伯爵以下の議員たちのことであり、定員問題以上に批判の対象となった。 衆議院議員選挙法に基づき、有爵者は衆議院議員になることはできなかった。そのため衆議院議員として活躍し立候補を希望する者が叙爵されてしまうと政治的権利の制約になる可能性がある点に注意が必要だった。たとえば原敬は立憲政友会総裁になる前から衆議院議員になれなくなることを警戒し、叙爵を回避しようと運動していた(原敬日記にしばしばこうした記述がある)。また高橋是清は衆議院議員選挙立候補のため、嗣子に子爵位を相続させて自らは分家として平民になることで対応している。 日韓併合後には旧韓国皇室が日本の皇族に準じる礼遇を受ける王公族となった。皇帝・皇太子・前皇帝が王族、それ以外の皇帝近親者が公族に列した。また1910年(明治43年)の朝鮮貴族令により朝鮮貴族の制度が設けられ、朝鮮人の勲功者に華族と同じ公侯伯子男の爵位が授けられるようになった(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位の爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族は、皇室から特別な礼遇を受け、その監督に服する点では華族と同じだったが、貴族院議員になる特権がなかった点が華族と異なった。 1906年(明治39年)には宮内省達第二号華族就学規則が制定され、宮内大臣が監督した。1907年(明治40年)の華族令改正では華族の範囲について有爵者たる戸主とその家族と定められた。次男以下が分家した場合は平民である。またこの改正の際に爵位継承のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に家督相続の届け出を行うことが義務付けられ、期間内に届け出がなかった場合は爵位を放棄することができる結果となった(ただこれ以前にも爵位返上した例はあった)。1910年(明治43年)には、華族戒飭令が定められ、地位の剥奪などの懲戒処分を審議する宗秩寮審議会が設置された。 1886年(明治19年)1月時点における爵位保持者の人口は525名でその親族は合計3419名であった。華族令制定後、毎年多数の叙爵が行われ、最終的には1016名が叙爵されている(陞爵は除く)。1947年(昭和22年)に華族制度が廃止された際の華族家の数は890家だった。 1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより華族制度や爵位は廃止された。貴族と華族はほとんど同義であるが、「その他の貴族」という表現には王公族や朝鮮貴族を含む。以降は日本国内において爵位が国の制度や社会に果たす役割は完全に消滅したといえる。しかし、戦後も国内外で功績ある日本国民に対して諸外国から爵位に叙せられる例がある。なお、正式な爵位・称号を授かってもいないのにこれを詐称することは軽犯罪法第1条15号に禁ずる行為となる。
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