近代における陰陽師排除政策と現代の陰陽師
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「陰陽師」の記事における「近代における陰陽師排除政策と現代の陰陽師」の解説
大政奉還がなされ明治時代になると、明治維新の混乱に乗じて、陰陽頭土御門晴雄は陰陽寮への旧幕府天文方接収を要望してこれを叶え、天文観測や地図測量の権限の全てを収用した。その後、明治政府が西洋式の太陽暦(グレゴリオ暦)の導入を計画していることを知った土御門晴雄は、旧来の太陰太陽暦の維持のため「明治改暦」を強硬に主張したものの、晴雄本人の薨去によりこの案が取り上げられることはなかった。晴雄夭折のあとに就任した陰陽頭晴栄はまだごく幼少であり、自発的な反論ができない状況にあった。 その期に乗じて明治政府は明治3年(1870年)に陰陽寮廃止を強行し、その職掌であった天文・暦算を大学校天文暦道局や海軍水路局、文部省天文局、天文台に移管した。旧陰陽頭であった土御門晴栄は大学星学局御用掛に任じられたが同年末にはこの職を解かれ、天文道・陰陽道・暦道は完全に土御門家の手から離れることとなった。同年閏10月17日(1870年12月9日)には天社禁止令が発せられ、陰陽道は迷信であるとして民間に対してもその流布が禁止された。古くは後陽成天皇のころから江戸時代最後の天皇である孝明天皇の代まで必ず行われてきた、天皇の代替りのたびに行われる陰陽道の儀礼「天曹地府祭」(これは天皇家に倣って、武家の徳川将軍家においても新将軍が将軍宣下を受ける度に代々欠かさず行われていた)も、明治天皇に対してはついに行われなかった。土御門家は陰陽諸道を司る官職を失い、免状独占発行権をも失うこととなり、やむを得ず土御門神道を更に神道的に転化させたものの、各地の民間陰陽師への影響力を奪われることとなった。 明治政府による禁止令以降、公的行事において陰陽道由来のものは全く見られなくなり、民間においても陰陽道の流行は見られなくなった。ただ、実質的には陰陽道由来の暦は依然として非公式に流布し、暦注が人気を博して独り歩きする状況であり、特に十二直が重用され、儀礼や行動規範に際し参照していた人が多数存在した。 第二次世界大戦後、旧明治法令・通達の廃止にともない陰陽道を禁止する法令が公式に廃止されて以降、かつて陰陽師が用いていた暦注のひとつである六曜(本来は「六輝」と言う、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口のこと)が、十二直よりも好まれカレンダーや手帳などのスケジュール表示の一部として広く一般に用いられているようになっているが、これはあくまで補助的な暦注としてのみ使用されるにとどまっている。占術や暦については九星占術を基本とする神宮館(東京都上野区)による高島易断・高島暦が比較的よく使用されているが、この術式は陰陽道とは言い難い。 現在では、自分自身の行動指針全般を陰陽道または陰陽師の術式に頼る人はほとんど見られず、かつて興隆を誇った陰陽道または陰陽師の権威の面影はなく、土御門家の旧領若狭国名田庄にあたる福井県西部のおおい町に天社土御門神道本庁の名で、平安時代中・後期の陰陽道とはかけ離れてはいるものの陰陽道の要素を色濃く残す宗教団体として存続しているほか、高知県香美市(旧物部村)に伝わるいざなぎ流などの地域陰陽師の名残が若干存続しているのみであるが、平安時代の宗教化・呪術化した陰陽師が持つオカルトなイメージをもとに、その超人性や特異性を誇張した様々な創作作品やキャラクターが生まれて、とりわけ平成初頭の10年間(1990年代後期から2000年代前期)にかけては陰陽師がブームとなり、多くの作品が作られた(具体例は「陰陽師に関係する創作一覧」を参照)。また、政界の陰陽師を名乗った富士谷紹憲がいる。
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