評価と後世への影響
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「カンポンボーイ」の記事における「評価と後世への影響」の解説
作者ラットによると、The Kampung Boy の初版6~7万部は3か月から4か月で完売し、1979年中に10万部以上が売れた。本作はラットの最高傑作であり、全著作の代表だと見なされている。2006年に出た米国版は、同年にチルドレンズ・ブック・カウンシルやブックリスト(英語版)エディターズ・チョイスなどの賞を受けた。また2007年には米国児童図書評議会(英語版)から「傑出した海外書籍」賞を受賞した。 『カンポンボーイ』ではマレーシアの伝統文化が生き生きと表現されており、木造家屋や民族衣装、村の行事や祭礼、信仰や人間関係などが題材にされている。その様子は本作の執筆時期からさらに20年ほど遡ったものであり、単なる写実という以上に、近代的な都会人で国際経験も豊富な筆者がノスタルジックに再構成した情景だと見られる。マレーシアでは1970年代以降に急速な都市化が進んでおり、1960年代以前に育った多くのマレーシア人は、本書によってゆったりしたカンポンの暮らしを懐かしく思い出した。スティーブンソンは、『カンポンボーイ』が描写する過去の光景は、すべての読者の中で過去の幸せな体験を懐かしく思う気持ちと共鳴するだろうと述べた。カンポンの生活を知らない人も「子供時代、思春期、初恋という普遍的なテーマ」には共感できると考えられる。評論家小野耕世は本作の描写が日本人にも普遍的な郷愁を引き起こすと述べている。またスティーブンソンによると、本書は「浚渫船」のような言葉を知らない年少の読者に対しても恐ろしい巨大な機械というイメージが十分に伝わるように書かれている。 本書は子供の無邪気さを再現することで、子供と大人の両方に魅力を感じさせている。ピヤダサは「『カンポンボーイ』は小説として読めるように構成されたのが明らかな傑作だ」と述べた。ピヤダサは本作が絵で伝える子供時代の経験をカマラ・レイ(英語版)の小説『アフリカの子』と比較し、『カンポンボーイ』を「創作媒体を問わずあらゆる試みの中で、マレー系の村落での子供時代を最も見事に、最も繊細に想起させる」とした。スタインバーガーは本作を、幼少期の遊びやいたずらを詳しく書いたコリン・シール(英語版)の自伝的小説 Sun on the Stubble と比較している。 ラットは『カンポンボーイ』の人気から後押しを受けて、自作のキャラクターの商品化と一部作品の出版を行う会社「カンポンボーイ有限会社」を立ち上げた。同社はサンリオおよびヒット・エンターテインメントと提携し、2012年8月に開設されたマレーシア初の屋内テーマパークであるプテリ・ハーバー・ファミリーテーマパークの中で『カンポンボーイ』のテーマレストラン Lat's Place を開店した。『カンポンボーイ』の特徴的なキャラクターはマレーシアで目にする機会が多く、これまで切手や資産管理ガイド、飛行機の機体に描かれてきた。
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評価と後世への影響
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「ヤン・ファン・エイク」の記事における「評価と後世への影響」の解説
ヤン・ファン・エイクに関する最初期の重要な文献は、イタリア人人文学者、歴史家バルトロメオ・ファツィオ (en:Bartolomeo Facio) が1454年にジェノヴァで出版した『偉人伝』で、ファン・エイクは当時「第一級の画家」として紹介されている。さらにファツィオはファン・エイクを、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ、ピサネロとともに、15世紀世紀前半で最高の芸術家であると位置づけている。イタリア人のファツィオが自国の画家と同様に、ネーデルラントの画家たちにも強い興味を示していたことは注目に値する。『偉人伝』には、ファン・エイクの現存していない作品にもわずかながら言及があり、著名なイタリア人のコレクションに所蔵されていたことなどが書かれているが、まったく別人の作品をファン・エイクの作品であるとして誤った同定をしている箇所もある。ファツィオは、ファン・エイクが十分な教育を受けた人物で、古典、とくに古代ローマの博物学者大プリニウスの美術論に精通していたと記している。古代ローマの詩人オウィディウスの著作『恋愛術』から引用した語句が『アルノルフィーニ夫妻像』のオリジナルの額(現存していない)に刻まれていたことからも古典に詳しかったことが伺え、さらに、多くの作品にラテン文字で書かれた銘が見られることも、ファン・エイクが十分な教育を受けた人物であったことを裏付けている。ヤン・ファン・エイクがラテン文字に詳しかったのは、フィリップ3世の命で諸外国へと旅した経験が役立っていた可能性もある。 ヤン・ファン・エイクがブルッヘで活動を始めてからの10年間で、革新した油彩技法によって、その評価と絵画技術は格段の進展を見せた。ヤン・ファン・エイクの革命的ともいえる油彩技法の刷新は、16世紀のイタリア人画家、伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』によって伝説となり、ファン・エイクが油絵具を発明したといわれるようになった 現存する歴史的文書から、ファン・エイクは生前から北ヨーロッパ中で絵画に革命を巻き起こした巨匠と見なされていたことが分かっている。ファン・エイクの絵画構成と手法は幾度となく模倣された。美術史における画家のモットーのうち、最初期にしてもっとも代表的ともいえる、ヤン・ファン・エイクの「我に能う限り (ALS IK KAN )」が最初に見られるのは、1433年の作品で自画像ではないかと言われ、当時の自負心が浮かび上がるかのような『ターバンの男の肖像』である。1434年から1436年にかけてが、ヤン・ファン・エイクの最盛期とされ、この時期に『宰相ロランの聖母』、『ルッカの聖母』、『ファン・デル・パーレの聖母子』などの名作が描かれた。また、この時期にかなり年下のマルガレーテと結婚している。1437年の記録から、ファン・エイクがブルゴーニュ宮廷の最上流階級から非常に高い評価を得ていたことと、諸外国からも多くの制作依頼を受けていたことが伺える。 ファン・エイクは1441年7月9日にブルッヘで死去し、同地の聖ドナトゥス大聖堂 に埋葬された。残された多くの未完成の作品は工房の職人たちが引継いで完成させている。現在でも、工房が完成させた作品であるとはいえ、初期フランドル派の絵画作品の好例であると見なされている作品が多い。ブルゴーニュ公国のみならず諸外国にまでファン・エイクの名声が広まったのは、当時のブルゴーニュ公国が政治、芸術の中心地だったことも大きく影響していた。
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