計画と建設開始
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当線の計画は、1916年11月10日に間島地域と会寧在住の日本人により「間島軽便鉄道建設期成会」を結成されたことに始まる。これは吉会鉄路建設が現地で猛烈な反対運動により建設が停滞していたことから、自ら間島地域の産業開発・地域振興を実施すべきとの意向により立案され、当初の計画では清会軽便鉄道が改修された後、不要になった鉄道資材を転用して龍井村-会寧間に鉄道を敷設するというものであった。 計画の具体化には延吉県の天宝山で銀・銅鉱山を経営していた「天宝山銀銅鉱」が主導的な役割を果たしている。天宝山銀銅鉱は東京を本社とする拓殖会社・南満洲太興の子会社として日中合弁で設立された鉱山会社で、当時の中国の法律では鉱業権を有する事業者は鉄道の敷設権を有すると規定されていたため、その附帯事業として12月1日に鉄道敷設を推進した。 しかし天宝山銀銅鉱の申請は、1916年12月10日に中華民国交通部により却下された。天宝山銀銅鉱が表面上は日中合弁であるが実際には日本が実権を有する会社であった点、そのように日本が実権を有する会社が鉄道を敷設することに対し官民双方の不信感が強い点、また鉱山会社が鉄道を独占することは好ましくない点を理由に吉林省の長官が拒絶したためである。また測量と用地買収に着手した時点で反対運動が激化し、発砲事件や放火未遂事件まで発生するなど不穏化、許可されたとしても実際の建設は不可能な状態となっていた。 中華民国交通部は鉄道建設を許可する条件として、鉱山経営と鉄道経営を分離することを要求したため、南満洲太興は附帯事業方式を撤回、日中合弁での鉄道会社設立を目指した。これにより1917年12月21日、中華民国政府により推薦された吉林省督軍署顧問・文禄と南満洲太興社長・飯田延太郎の間で契約が行われ改めて交通部に鉄道敷設を申請。これに対し将来必要があれば中華民国政府が鉄道を買収するなどの追加条項が付帯され認可、1918年3月16日に「天図軽便鉄路」が誕生した。日中合弁ではあるが実際には日本側が主導権を握っており、上層部は当線を吉会鉄路の一部としてのちのち買収させようとも考えていた。 敷設工事に着手するに際しては計画の見直しを行い、当初の計画では、天宝山から会寧までは直線とされていたが、工事が困難であることが判明したため、路線を満州側と朝鮮側に越境する経路とした。国境越境路線となったためそれぞれで別個に鉄道敷設を行う必要が生まれ、朝鮮側の鉄道は、のちに「図們鉄道」という姉妹会社になっている。 さらに初期計画では人力を予定していたが、石炭・鉱石などの輸送が目的であるため、輸送力の強化を図る必要が生じ、蒸気機関車への動力変更が行われた。 このような計画変更の末、天宝山麓から豆満江河岸へ至る軽便鉄道の工事の準備が整えられつつあった。
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計画と建設開始
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「ミッテルラント運河」の記事における「計画と建設開始」の解説
低い山岳地帯が始まるより前の北ドイツ平原において、ライン川とエルベ川を結ぶ運河を建設するという最初の計画は1856年に持ち出された。この考えはクライスバウマイスター・フォン・ハルトマンの協力を得て発展した。 この計画は、東エルベ地方の農民が西部から安価な産物が流入してくることを恐れたため、国内で厳しい議論を呼び起こした。妥協として、1905年4月1日にプロイセン水利法が施工された際に建設が決定された運河は、ハノーファーまでとされた。翌年、第1段階としてベルゲスヘーフェーデからハノーファーまでの、西側でドルトムント-エムス運河と接続する区間の建設が始まった。第一次世界大戦により建設はかなり遅れたが、ミンデンまでの区間が完成して、1915年に当時はまだエムス-ヴェーザー運河という名前であったが、供用を開始した。さらに翌年、ミンデン近郊でヴェーザー川に架かる水路橋が完成し、ハノーファーのミスブルク港(ドイツ語版)までの区間が供用を開始して、これにより妥協案の全区間が完成した。 1919年から、ハンザ運河(ドイツ語版)という連絡運河が計画された。ハンザ運河はブラームシェでミッテルラント運河から分岐し、アヒムでヴェーザー川を横断し、シュターデでエルベ川に到達する計画であった。しかしこのプロジェクトは結局着手されることはなかった。 1926年7月26日に国家の方針としてミッテルラント運河の残りの区間を完成させることが決定された。 1918年12月14日には、プロイセン政府が緊急事業として、アンダーテンからパイネの区間と、ヒルデスハイムまでの分岐運河の建設を命じていた。工事の一部は第一次世界大戦直後から始まり、1928年にミッテルラント運河のハノーファーからパイネ、そして支線のヒルデスハイムまでが完成した。ハノーファー近郊のアンダーテンの閘門は、1928年にドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク臨席で開通した。 1928年にはさらに東側への次の拡張工事が開始された。1929年にはパイネの港への接続が行われ、1933年にはブラウンシュヴァイクの港へとつながった。国家労働奉仕団の支援を受けて、アルトマルク南部のモーアニーデルンゲンの湿地帯が排水され、1938年にマクデブルクのジュールフェルト閘門(ドイツ語版)とローテンゼーボートリフト(ドイツ語版)が完成し(10月30日に厳粛な開通式典があった)、エルベ川までの接続が完了した。しかし、第二次世界大戦のためにエルベ川の立体交差は完成せず、エルベ川に架かる水路橋とホーエンヴァルテのボートリフトの建設は1942年に中止された。戦後のドイツ分断時代には、エルベ川横断部の建設はもはや求められなかった。船は一旦エルベ川の水位まで下り、ニーグリップ閘門(ドイツ語版)を経る迂回をして、東のエルベ-ハーフェル運河(ドイツ語版)へと進まなければならなかった。 同様に未完成に終わったものとして、ミッテルラント運河の南部区間と呼ばれるものがある。これは1926年に決定されたプロジェクトで、ミッテルラント運河の拡大工事と同時進行することになっており、ザーレ川を開発してライプツィヒやハレ地区に新たな運河を何区間か設置することになっており、これによりルール地方からマクデブルク経由で中央ドイツ工業地域に直接船舶輸送がつながることになっていた。この工事は1933年7月に着工されて迅速に進められたが、1937年以降は緩慢な動きとなり、最終的に戦争のために1942年から1943年にかけて完全に工事が打ち切られた(エルスター-ザーレ運河(ドイツ語版))。
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