計画と創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 01:10 UTC 版)
「プロイセン王立造兵廠」の記事における「計画と創設」の解説
銃砲製造所の創設は、共同出資者のダーヴィット・シュプリットゲルバー(ドイツ語版)とともにシュプリットゲルバー&ダウム商館(ドイツ語版)を経営し、その重点を数十年にわたり軍の装備と砲弾に置いてきたゴットフリート・アドルフ・ダウム(ドイツ語版)が提案した。王命を受けて交渉にあたったのは、後に王立火薬廠(ドイツ語版)や兵器庫(英語版)にも関わって功績を立てたクリスティアン・ニコラウス・フォン・リンガー大佐である。ゴットフリート・ダウムがその計画、「いかに国王陛下が新しい銃砲製造所を御領地に設立し(中略)良き武器を造らせ給うか(後略)」を披露した後、1722年3月22日に王から最高決議を伴う承認が下り、それが共同作業の下地となった。その中で王は労働者に特権(信仰の自由、工場敷地内におけるブランデー飲酒の許可、カントン制度の任意適用)を確約している。また深刻な状況下ではあてにできないものの、経営者には特権が認められている(異例の賃貸借契約関係を参照)。 用地として提供されたのはホーエンツォラーン家の領地に属し、衛戍地となった王宮所在都市(ドイツ語版)ポツダムである。 製造所は分散された。鍛造、穿孔、鍛金や研磨といった全ての大まかな作業は、同じく王領であったシュパンダウ郊外の一帯で行われた。武器の部品の輸送にはハーフェル川の水路が利用できた。ポツダム市内には最終仕上げ、品質監査、管理と監督の各部門があった。造兵廠は国王直轄(Immediatbau)の地位とともに軍の管轄下にあり、宮廷裁判所(ドイツ語版)に直属していた。 プロイセンには存在しなかった、計画の実行に必要な専門家はゴットフリート・ダウムが、当時の武器製造の中心地であったリエージュで募集した。作業場と住居が完成した後、シュプリットゲルバー&ダウム商館は1722年に造兵廠を賃借し、ゴットフリート・ダウムが監督に就任する。何人かの親方は、エッセンの造兵廠から来て国王に仕えている。
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