計画と建艦
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「レオポルドゥス・プリムス」の記事における「計画と建艦」の解説
「レオポルドゥス・プリムス」と、恐らく同型艦である「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」(初代)の計画と建造は1663年に始まる。計画が文献に初出するのは、同年6月4日の提督府の議事録である。商人、ディートリヒ・ファスマーが全商業者の代表として 「トルコ人に対抗できる何隻かの艦を市が建造、あるいは購入すること」 を提案した。 従来の不適な商船に代わり、以後は純然たる軍艦がハンブルクの貨物船の保護に配慮することとなった。早くも9月23日には、市民会議がフリゲート2隻の建造を提案する。その資金調達のため「濠金」(ドイツ語: Grabengeld、グラーベンゲルト)、すなわち市壁と水濠の建造、補強と防備のための支出が倍加されることになる。間もなく、市民議会は諸計画に賛同した。 「レオポルドゥス・プリムス」の建造について伝わる情報は多くない。建造開始は、不明の理由によって著しく遅れる。諸計画は、ほぼ忘れ去られたかと思われた。1665年2月、「立派な商人」7名が創設して間もないハンブルク商人の代表機関、商業委員会(ドイツ語版)が建艦を催促した。1666年6月27日、それがいまだに始まっていなかったので、同委員会は再び計画に注意を促す。10月31日、市民議会は改めて2隻の建造を承認したが、この時には建艦を開始してから濠金を支払うという条件を付けている。 1666年11月と1667年1月、商業委員会が重ねて建艦を催促した後、誰が両艦の建造費用を負担するのか、という議論が発生した。提督府と商業委員会の間で数多くの書簡が交わされる中、費用分担を巡る審議や協議はなおも進展を見せなかった。 結局、起工は1667年中に実施された。1隻は市金庫が、もう1隻は商業委員会が負担することになり、それぞれの出資者が監督する中で建艦されたのである。両艦の建造は、名前が伝わっていないネーデルラントの船匠の指導下、ネーデルラントの模範に従い、純粋に職人の手で実施された。すなわち、設計図は用いられていない。同時代の船匠は誰もが書類で記録されたり、譲渡されたりすることのない、厳しく守られた家伝の秘密を受け継いでいたのである。建造の場としてはダイヒトーア(堤防門)付近の広場が利用された。皇帝レオポルト1世を表した艦尾像など、彫刻作業はハンブルクの彫刻家、クリスティアン・プレヒト(ドイツ語版)が担当した。この像は現在、ハンブルク歴史博物館(英語版)に展示されている。 木工作業は起工と同じ年に終わり、1668年2月からは艦の艤装が始まる。同年9月、「レオポルドゥス・プリムス」は出航準備が完了し、その旨が市議会に報告された。しかし、同艦はすでに4月には完成していたと思われる。なぜなら商業委員会のある覚書が、その時点で「新造の護衛艦」に言及し、同年の夏には準備が整うとしているからである。「レオポルドゥス・プリムス」はM. ドライアーを初の艦長に頂き、処女航海に出た。 このように重要な艦の名を、遥かなウィーンで厳格にカトリックを信仰する皇帝にちなんで付けたことは、神聖ローマ帝国の国事にあまり関って来なかったハンブルクにとってかなり異例であった。その動機としては、この命名問題を題材とする手書きの詩が挙げられる。 Die hamburgische Fregatte. Ihr Edle, haltet Rath! wie wollet Ihr benennen Das neuerbaute Schiff? wobey soll man es kennen, Wann andrer Orten kombt? Solls der Neptunus sein? Warumb ein Heiden-Gott? Ein heller Sternenschein, Wie Amphora, wär guth, Aquarius von gleichen, Allein die Argo wird ja schwerlich diesem weichen. Die führte fünfzig vier, so edell allzumahl So rittermäßig all. Dis Schiff an gleicher Zahl Führt auch soviel Geschütz, die müsste man beachten, Dis hat so etwas Grund, doch kan man weiter trachten, Zu finden einen Nahmen, der herrlich allen sey, Der aller Völker Furcht, der dan diss Schiff befrey Von Unlust, von Verdruss, so wirds dann heissen müssen, Der Kayser Leopoldus, dem ich leg zum Füssen. J.V.S. Philolingius ハンブルクのフリゲート 貴顕なる方々よ、話し合われよ!いかに名づけるのか この新たに造られし船を。何によって認められるべきか? 異郷に至りし時に。それはネプトゥーヌスであるべきか? なぜ異教の神なのか?明るい星の輝き、 さもアンフォラの如きは良かろう。みずがめ座と同じく。 アルゴ座もほぼそれには劣るまい。 そは54(の星)を引き連れる。みな共にかくも気高し。 みなかくも騎士の如し。この船も同じ数の 砲を備え、そこに意を払うべし。 それには理由があるが、さらに努めることもできる。 見つけるにあたって、誰にも素晴らしき名を。 全ての民の恐れとなり、かくしてこの船を解き放つ、 嫌気や不愉快より。ならば名乗らねばなるまい。 皇帝レオポルドゥスと。私が足下にひれ伏すその方(の御名を)。 作者は1664年にトルコ軍のヨーロッパ進撃を阻止した、レオポルト1世率いる神聖ローマ帝国軍のモーガースドルフにおける勝利(ドイツ語版)に触れていると考えられている。この皇帝をイスラム教徒の海賊に対する守護聖人に頂くことは、つまり当然の発想だったのである。さらにレオポルト1世の通商政策は北に目を向けたものであり、ハンブルクは銅の輸出および海外交易の積み替え港として必要であったという事情も加わる。これらの計画は、まだまだ帝国自由都市としてのハンブルクの地位を否定していたホルシュタイン公に対し、強力な同盟者を得ることになったハンブルク市民にとって歓迎されるものであった。 皇帝とハンブルクの友好関係は、ハンブルクが厳格に中立を貫いた三十年戦争の時代に由来する。
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