猛烈な反対運動とは? わかりやすく解説

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猛烈な反対運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/23 01:00 UTC 版)

灰塚ダム」の記事における「猛烈な反対運動」の解説

1965年4月建設省予備調査開始したが、ダム建設によって332戸の住居と177haの農地水没することから水没予定地の灰塚地区中心にたちまち反対運動持ち上がり同年9月5日に「灰塚ダム反対期成同盟会」が結成された。「同盟会」はその後吉舎町総領町住民加わり拡大、翌1966年9月2日には「灰塚ダム建設反対同盟会」と改組された。こうした地元住民と軌を一にして三良坂町などの町議会ダム建設反対決議採択し建設省との全面対決姿勢露にした。 この間建設省ダム地点調査はおろか地元に全く足を踏み入れられない状況となった1972年7月豪雨による三次市大水害、それに続く江の川水系工事実施基本計画策定によって灰塚ダム正式な事業となった地元町議会水没予定地の住民ダム建設反対意思変えず1974年実施計画調査ダムの型式規模決めるための諸調査)にも反対決議採択して建設省との交渉拒絶したこの後建設省地元に入ることが許されないまま、1981年昭和56年)までの7年間完全なこう着状態が続いた。なお、同時期に着手され江の川本流土師ダム実施計画調査から補償交渉本体工事、そして完成といった全ての段階灰塚ダム予備調査間内済ませている。

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猛烈な反対運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 08:31 UTC 版)

沼田ダム計画」の記事における「猛烈な反対運動」の解説

岩本ダム」・「沼田ダム何れの計画にしても余りに地元への影響多大であり、計画発表後直ち地元猛烈な反対惹き起こす。「岩本ダム計画」が公になったのは1953年8月14日付け毎日新聞が「沼田に『大ダム』を建設」と報道してからであり、沼田地域住民はこの記事読んで初めダム計画があることを知った。「岩本ダム」の場合穴あきダムであることから、洪水時に貯水することで田畑水没する建設省その度補償金支払うと言明していたが、一旦泥水浸かる原状回復が困難であることを知っている農民はこれに激しく反発した。 約 710 ha人造湖形成されることで約800戸が移転余儀なくされることから周辺住民一致してダム建設強固に反対する姿勢取り同年12月には周辺町村住民加わって沼田ダム建設絶対反対期成同盟連合会」を結成。「我ら農民生存利害無視した暴戻極まりない案」として猛烈な反対運動を展開したこの中で沼田ダム即時撤回利根川水系各支流に分散したダム建設前述の「B案」)を行うよう強烈に主張したこうした反対運動によってダム計画膠着化、この間藤原ダム相俣ダム完成して利根川治水計画進み、「岩本ダム」は事実上凍結した。これにより一度落ち着いたかに見えたダム計画1959年再度動き出したことにより再び反対運動持ち上がったが、今度運動前回の比ではなかった。それは産業計画会議案による「沼田ダム計画余りにも沼田市対し犠牲を強いる案であったからである。 この案でダム完成した場合湛水面積は約 2,700 ha となるわけであるが、地図水没予定地を見た場合北は赤谷川合流点越えて利根郡月夜野町付近群馬県道273号後閑羽場線月夜野まで水没する。また東では片品川沼田市下久屋町付近薄根川沼田市岡谷町まで完全に水没する沼田市高台一部半島状に残り低地は全く水没する態となる。上越新幹線関越自動車道沼田市付近避けて高台通過しているのは、沼田ダム建設念頭に置いたものといえなくもない。特に関越自動車道については、ダム完成時に付け替えられる国道17号予定路線とほぼ同じ位置通過しており、沼田インターチェンジ水没免れる新沼田市予定地に建設されている。 水没予定地の中には沼田市役所沼田警察署沼田消防署国立沼田病院国鉄沼田駅といった沼田市官庁街含まれる移転世帯も2,200世帯莫大なものとなり、沼田市ダム建設によって多大な損失蒙るこのため沼田市民や月夜野町民は「沼田ダム計画猛然と反発、「沼田市利根郡繁栄から零落引きずり落とす」・「藤原ダム相俣ダム水没住民の例を見れば移転住民将来は暗い」として「沼田ダム建設反対期成同盟連合会」を結成計画発表の3ヵ月後、10月7日沼田公園において「沼田ダム建設反対決起大会」を挙行した。この大会集まった住民は約3,000人。めいめい鉢巻ムシロ旗を携え市街地デモ行進しダム反対訴えた。 これを受け沼田市議会は「総決起大会」後の10月11日沼田ダム建設に対して沼田市壊滅する」と反対決議全会一致採択周辺利根郡昭和村等も反対意思明確にし、建設省対し激しく抵抗した。その一方で赤城・榛名大開計画受益地となる北群馬郡勢多郡からは「沼田ダム建設賛成動きがあり、前年1958年昭和33年7月29日に同じ沼田市内で「沼田ダム建設促進同盟会」が結成され早期ダム建設訴えたこのため沼田市民の間では賛否両論渦巻き住民同士対立一部では起こった。またダム建設見越した投機業者土地値段吊り上げ地価暴騰、さらに市内公共事業ダム建設動き不透明なこともあって進捗滞るなどの支障生じた

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