猛烈な反対運動
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1965年4月に建設省は予備調査を開始したが、ダム建設によって332戸の住居と177haの農地が水没することから水没予定地の灰塚地区を中心にたちまち反対運動が持ち上がり、同年9月5日に「灰塚ダム反対期成同盟会」が結成された。「同盟会」はその後吉舎町や総領町の住民が加わり拡大、翌1966年9月2日には「灰塚ダム建設反対同盟会」と改組された。こうした地元住民と軌を一にして三良坂町などの町議会もダム建設反対決議を採択し、建設省との全面対決姿勢を露にした。 この間建設省はダム地点の調査はおろか、地元に全く足を踏み入れられない状況となった。1972年7月豪雨による三次市の大水害、それに続く江の川水系工事実施基本計画策定によって灰塚ダムは正式な事業となったが地元町議会と水没予定地の住民はダム建設反対の意思を変えず、1974年の実施計画調査(ダムの型式や規模を決めるための諸調査)にも反対決議を採択して建設省との交渉を拒絶した。この後建設省は地元に入ることが許されないまま、1981年(昭和56年)までの7年間完全なこう着状態が続いた。なお、同時期に着手された江の川本流の土師ダムは実施計画調査から補償交渉、本体工事、そして完成といった全ての段階を灰塚ダムの予備調査期間内に済ませている。
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猛烈な反対運動
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「岩本ダム」・「沼田ダム」何れの計画にしても余りに地元への影響が多大であり、計画発表後直ちに地元の猛烈な反対を惹き起こす。「岩本ダム計画」が公になったのは1953年8月14日付けで毎日新聞が「沼田に『大ダム』を建設」と報道してからであり、沼田地域の住民はこの記事を読んで初めてダム計画があることを知った。「岩本ダム」の場合は穴あきダムであることから、洪水時に貯水することで田畑が水没する。建設省はその度に補償金を支払うと言明していたが、一旦泥水に浸かると原状回復が困難であることを知っている農民はこれに激しく反発した。 約 710 ha の人造湖が形成されることで約800戸が移転を余儀なくされることから周辺住民は一致してダム建設に強固に反対する姿勢を取り、同年12月には周辺町村の住民も加わって「沼田ダム建設絶対反対期成同盟連合会」を結成。「我ら農民の生存利害を無視した暴戻極まりない案」として猛烈な反対運動を展開した。この中で沼田ダムの即時撤回と利根川水系の各支流に分散したダム建設(前述の「B案」)を行うよう強烈に主張した。こうした反対運動によってダム計画は膠着化、この間に藤原ダムや相俣ダムが完成して利根川の治水計画が進み、「岩本ダム」は事実上凍結した。これにより一度落ち着いたかに見えたダム計画が1959年に再度動き出したことにより再び反対運動が持ち上がったが、今度の運動は前回の比ではなかった。それは産業計画会議案による「沼田ダム」計画が余りにも沼田市に対し犠牲を強いる案であったからである。 この案でダムが完成した場合、湛水面積は約 2,700 ha となるわけであるが、地図で水没予定地を見た場合北は赤谷川合流点を越えて利根郡月夜野町付近、群馬県道273号後閑羽場線の月夜野橋まで水没する。また東では片品川が沼田市下久屋町付近、薄根川が沼田市岡谷町まで完全に水没する。沼田市は高台の一部が半島状に残り、低地は全く水没する状態となる。上越新幹線や関越自動車道が沼田市付近を避けて高台を通過しているのは、沼田ダム建設を念頭に置いたものといえなくもない。特に関越自動車道については、ダム完成時に付け替えられる国道17号の予定路線とほぼ同じ位置を通過しており、沼田インターチェンジは水没を免れる新沼田市街予定地に建設されている。 水没予定地の中には沼田市役所・沼田警察署・沼田消防署・国立沼田病院・国鉄沼田駅といった沼田市官庁街が含まれる。移転世帯も2,200世帯と莫大なものとなり、沼田市はダム建設によって多大な損失を蒙る。このため沼田市民や月夜野町民は「沼田ダム」計画に猛然と反発、「沼田市・利根郡を繁栄から零落へ引きずり落とす」・「藤原ダム・相俣ダム水没住民の例を見れば、移転住民の将来は暗い」として「沼田ダム建設反対期成同盟連合会」を結成。計画発表の3ヵ月後、10月7日に沼田公園において「沼田ダム建設反対総決起大会」を挙行した。この大会に集まった住民は約3,000人。めいめい鉢巻やムシロ旗を携え、市街地をデモ行進してダム反対を訴えた。 これを受け沼田市議会は「総決起大会」後の10月11日、沼田ダム建設に対して「沼田市が壊滅する」と反対決議を全会一致で採択。周辺の利根郡昭和村等も反対の意思を明確にし、建設省に対し激しく抵抗した。その一方で赤城・榛名大開田計画の受益地となる北群馬郡や勢多郡からは「沼田ダム」建設賛成の動きがあり、前年の1958年(昭和33年)7月29日に同じ沼田市内で「沼田ダム建設促進同盟会」が結成され、早期のダム建設を訴えた。このため沼田市民の間では賛否両論が渦巻き住民同士の対立も一部では起こった。またダム建設を見越した投機業者が土地の値段を吊り上げ地価が暴騰、さらに市内の公共事業がダム建設の動きが不透明なこともあって進捗が滞るなどの支障が生じた。
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