イスラムの台頭と聖像破壊運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 20:53 UTC 版)
「キリスト教の歴史」の記事における「イスラムの台頭と聖像破壊運動」の解説
「聖像破壊運動」および「イスラム教」も参照 東地中海世界のキリスト教は新約聖書の頃にその起源を有するギリシア語典礼を保持するとともに、聖像崇敬を独自の仕方で発展させていった(この反動が聖像破壊運動となる)。当初は腰ほどの高さであった聖職者と一般信徒の間の区切り、イコノスタシスは、やがて教会の床から天井までをさえぎる壮麗な聖画の集まりへと発展し、その配列についての神学また聖像の描き方についての神学および技法上の進展がみられた。 一方、7世紀にイスラム教がアラビア半島で生まれ、急速に拡大してイスラム帝国を築いた。これは単性論論争で分裂していた東方教会にとって大きな痛手となった。7世紀前半にはシリア地方、パレスチナ、エジプトがイスラム帝国の版図となる。これらの地域の非カルケドン派正教会信者はコンスタンティノポリス中心とする東方教会の正統から抑圧されていたので、むしろイスラム帝国を解放者として歓迎した。イスラム帝国治下のキリスト教徒は、一定の人権を保障され、異端とされた諸派に関してはビザンティン帝国治下よりも安全な生活と信仰をも保障されたのである。 しかし同時に彼らはイスラーム世界における異教徒の隷属民(ズィンミー)としてムスリムの下位に置かれ、ハラージュ(地租)・ジズヤ(非改宗者に課せられる税)を徴収されるなど一定の差別と抑圧の元に置かれた。また、支配者によってはとりわけ厳しい迫害を行い、強制改宗を行ったこともあった。このためこの地方ではキリスト教徒が徐々にではあるがイスラム教に改宗していった。しかしこれはダマスカスのウマイヤモスクの建設時期に見られるように数世紀をかけたゆっくりとした変化であって、同じ土地にかつて存在した古典古代の神殿がキリスト教徒の破壊を受けたり、アレクサンドリアのムセイオンがキリスト教徒による略奪・虐殺にあったのに比べれば、比較的平和的であったとされる。 638年にはムスリムによりエルサレムが征服された。ウマル1世は征服後エルサレムに入り、エルサレムがイスラム共同体の管理に入ったことを宣言するとともに、エルサレム総主教ソフロニオスと会談して、聖地におけるキリスト教徒がイスラームに屈服しその優越性を認める限りに於いて、ズィンミーとして一定程度の人権を保障することを約束するウマル憲章を発布した。 この段落の主要参考文献:。 イスラム教徒からはキリスト教の聖像使用に対して批判があり、これに影響された東ローマ帝国の知識人の間に8世紀には聖像破壊主義がおこった。これは帝国を二分する争いとなり、さらに東ローマ皇帝が聖像破壊主義を支持したことにより、東ローマ帝国とローマ教皇の間に疎遠を生ずることにつながった。この時、東ローマ帝国で皇帝による聖像破壊に対して民衆・修道士達から猛烈な反対運動が起こり、致命者も出た。聖像擁護の論陣を張ったダマスコのヨハンネス(イオアン)は正教会に於いて現代も篤い崇敬の対象となっている。最終的に、第3コンスタンティノポリス公会議において聖像崇敬が教義として確立され、聖像破壊論争は終結した。
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