イスラムの進出とアッバース朝の宮殿
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「ラッカ」の記事における「イスラムの進出とアッバース朝の宮殿」の解説
639年、キリスト教の都市だったカリニコスはアラブ人たちによるイスラム帝国により陥落し、以後アラビア語の文書には現在の「アル・ラッカー」の名が登場するようになったが、シリア語文書では従来どおりカリニコスと表記された。640年、キリスト教徒が圧倒的多数を占めるラッカの街にジャズィーラ最初の会衆モスク(大モスク)が建てられ、信者が多く移り住むようになった。ラッカの戦略的重要性はウマイヤ朝末期・アッバース朝初期の戦乱期に高まった。ラッカはシリア地方とイラク地方を結ぶ十字路であり、南はタドムール(パルミラ)を通って大都市ダマスカスへ、北はハッラーンの街を通りカリフの臨時の在所であるアル=ルサファ(ar-Rusafa、別名エデッサ、今日のトルコ領シャンルウルファ)へ、東はイラクやペルシャへ、西は東ローマ帝国との国境の戦場へと道が走る場所だからである。 771年、アッバース朝の第2代カリフマンスールは市街の200m西に、自身の持つホラーサーン人部隊の分遣隊の兵営都市を築き、アル=ラフィカ (ar-Rāfiqah) と名づけた。その印象的な城壁は今も残り、アッバース朝の軍事力の強大さを物語る。 ラッカとラフィカは一つの大都市へと融合し、ウマイヤ朝の首都だったダマスカスよりも大きくなった。796年に第5代カリフハールーン・アッ=ラシードは、ラッカ/ラフィカに宮殿を構えた。行政機能はバグダードに残したものの、治世のほとんどの期間である13年間に渡りカリフの居城が置かれ、中央アジアから北アフリカに広がる帝国の帝都となり、東ローマ帝国の侵攻に対する守りの拠点となった。ラッカは交通の便が良く、各地の軍隊への指令も容易で、後背地に豊かな農村を抱え大きな人口を支えることができたことが優れた点であった。 ラッカの宮殿は、双子都市ラッカ/ラフィカの北にある10平方kmの敷地を占めた。イスラム教法学の主要な学派・ハナフィー学派の創設者の一人シャイバーニーはラッカの裁判官であり、数学者・天文学者バッターニーはラッカで活躍した。ラッカの宮廷の輝きは、アブル・ファラジュ・イスファハーニーが編纂した『キターブ・アル・アガーニー』(Kitāb al-Aghāni、歌の書)のいくつかの詩に記録されている。現在では、宮殿跡地のはずれにある、東宮殿という名の修復された小さな建物が、アッバース朝建築の印象を伝えている。ラッカの西8kmには、未完成に終わったハールーン・アッ=ラシードの時代の勝利記念碑、ヘラクラ (Heraqla) が残っている。これは、小アジアにある東ローマの都市ヘラクレイア征服を記念したものとされるが、これを天体に起こった出来事とを結びつける異論もある。記念碑は直径500mの円形の城壁の中央にある四角い建物に守られているが、建物の上部はハールーン・アッ=ラシードがホラーサーンで急死したため未完成のままになった。アッバース朝の宮廷は809年バグダードに戻ったが、ラッカ/ラフィカはエジプトも含む帝国西半分の副都となった。
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