イスラムの進出とアッバース朝の宮殿とは? わかりやすく解説

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イスラムの進出とアッバース朝の宮殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:45 UTC 版)

ラッカ」の記事における「イスラムの進出とアッバース朝の宮殿」の解説

639年キリスト教都市だったカリニコスはアラブ人たちによるイスラム帝国により陥落し以後アラビア語文書には現在の「アル・ラッカー」の名が登場するようになったが、シリア語文書では従来どおりカリニコスと表記された。640年キリスト教徒圧倒的多数占めラッカの街にジャズィーラ最初会衆モスク(大モスク)が建てられ信者多く移り住むようになったラッカ戦略的重要性ウマイヤ朝末期アッバース朝初期戦乱期に高まったラッカシリア地方イラク地方を結ぶ十字路であり、南はタドムール(パルミラ)を通って大都市ダマスカスへ、北はハッラーンの街を通りカリフ臨時在所であるアル=ルサファ(ar-Rusafa、別名エデッサ今日トルコ領シャンルウルファ)へ、東はイラクペルシャへ、西は東ローマ帝国との国境戦場へと道が走る場所だからである。 771年アッバース朝第2代カリフマンスールは市街200m西に、自身の持つホラーサーン人部隊の分遣隊兵営都市築きアル=ラフィカ (ar-Rāfiqah) と名づけた。その印象的な城壁は今も残りアッバース朝軍事力強大さを物語る。 ラッカとラフィカは一つ大都市へと融合しウマイヤ朝首都だったダマスカスよりも大きくなった。796年に第5代カリフハールーン・アッ=ラシードは、ラッカ/ラフィカに宮殿構えた行政機能バグダード残したものの、治世のほとんどの期間である13年間に渡りカリフ居城置かれ中央アジアから北アフリカ広がる帝国帝都となり、東ローマ帝国侵攻対す守り拠点となったラッカ交通の便良く各地軍隊への指令も容易で、後背地豊かな農村抱え大きな人口支えることができたことが優れたであったラッカ宮殿は、双子都市ラッカ/ラフィカの北にある10平方km敷地占めたイスラム教法学主要な学派ハナフィー学派創設者一人シャイバーニーラッカ裁判官であり、数学者天文学者バッターニーラッカ活躍したラッカ宮廷輝きは、アブル・ファラジュ・イスファハーニー編纂した『キターブ・アル・アガーニー』(Kitāb al-Aghāni、歌の書)のいくつかの詩に記録されている。現在では、宮殿跡地のはずれにある、東宮殿という名の修復され小さな建物が、アッバース朝建築印象伝えている。ラッカの西8kmには、未完成に終わったハールーン・アッ=ラシード時代勝利記念碑、ヘラクラ (Heraqla) が残っている。これは、小アジアにある東ローマ都市ヘラクレイア征服記念したものとされるが、これを天体起こった出来事とを結びつける異論もある。記念碑直径500m円形城壁中央にある四角建物守られているが、建物の上部はハールーン・アッ=ラシードホラーサーン急死したため未完成のままになったアッバース朝宮廷809年バグダード戻ったが、ラッカ/ラフィカはエジプトも含む帝国西半分副都となった

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