第2次長嶋監督時代とは? わかりやすく解説

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第2次長嶋監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 11:59 UTC 版)

読売ジャイアンツ」の記事における「第2次長嶋監督時代」の解説

1993年 現役大リーガージェシー・バーフィールドヤクルトから長嶋一茂獲得して3年ぶりのリーグ優勝期待されたが、打撃陣の不振チーム打率12球団最下位得点安打リーグ最下位)、投手陣斎藤桑田不調から3位終わったオフに、この年から導入されフリーエージェント (FA) 制度によりFA宣言をした中日落合博満獲得する。その一方駒田徳広同様にFA宣言行って横浜移籍する。その横浜からは自由契約になった屋鋪要獲得した1994年 開幕戦松井落合アベックホームラン出てその勢いで前半首位独走したが、夏場失速終盤最大10ゲーム差をつけていた2位中日猛烈な勢いで追い上げられ、シーズン最終戦10月8日対中日戦〈ナゴヤ球場〉、いわゆる10.8決戦」)が優勝決定戦となった史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦日本全国注目集め、各マスコミでも大きく報道長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合槙原寛己斎藤桑田当時エース三本柱」の継投で、リーグ優勝達成日本シリーズでは、4勝2敗で初め西武ライオンズ破って日本一に輝く。篠塚この年引退1995年 近鉄阿波野秀幸香田勲男との交換トレード獲得広島川口和久ヤクルト広沢克己FA獲得。また同じヤクルト自由契約となったジャック・ハウエルミネソタ・ツインズシェーン・マック獲得し30億円補強呼ばれたものの、阿波野は未勝利終わり川口負け先行してローテーション守れず、広澤チャンス打てず、さらに6年ぶりの本格的な外野守備、特に初の左翼手へのコンバート慣れず守備でも足を引っ張ってしまった。斎藤18勝で最多勝槙原11勝をあげローテーション守った前年MVP桑田序盤戦プレイ中に大怪我してしまい、翌シーズン全休してしまった。抑え投手木田石毛連日痛打浴びて敗戦投打にわたり歯車噛み合わず優勝争いからどんどん後退していたが、新人河原純一高村良嘉若手西山一宇後藤孝志杉山直輝吉岡佑弐など二軍からはい上がった生え抜き使い出してからはチーム歯車かみ合い連勝重ね最終的に貯金14作った。しかし、優勝したヤクルトには9勝17敗と大きく負け越してしまい、結局優勝争いに加わることができず、最終的に優勝したヤクルト10ゲーム差3位終わったまた、同年最終戦で原が現役引退した1996年 桑田全休槙原河原シーズン途中でのリタイアがあり、さらにシーズン序盤リリーフ陣が崩壊し序盤Bクラス落ちていたが、7月9日の対広島16回戦の2回に9連打プロ野球タイ記録で勝つとチーム一気加速斎藤・新外国人バルビーノ・ガルベスが共に16勝を挙げ最多勝獲得し、またシーズン中補強しリリーフエースになったマリオ・ブリトー日本ハムからFA移籍してきた河野博文チーム支え松井が1本差本塁打王逃した主軸として成果上げる。ルーキー仁志敏久清水隆行らの台頭もあり世代交代決まった当時リーグ史最大の11.5ゲーム差はね返しリーグ優勝成し遂げた。「メークドラマ」とはこの年大逆転を指すことが多い。日本シリーズではオリックス・ブルーウェーブ対戦するも、1勝4敗で敗れたオフ岡崎郁長嶋一茂戦力外通告を受け、引退した1997年 西武から清原和博FA権を行使して入団した松井とともに、ON(王・長嶋以来強打者コンビMK砲」として期待された。この際清原押し出されるように落合が「長嶋監督悩ませることはできない」と異例会見開いて日本ハム移籍ロッテ自由契約となったエリック・ヒルマン獲得し95年30億円を超える33億円補強行ったが、開幕戦3年連続開幕戦完封勝利をあげていた斎藤ノックアウトされたのをきっかけヒルマン含め主力選手故障者・不調者が続出桑田復活しカムバック賞逃した再起松井本塁打王争い繰り広げていたが一向にチーム浮上できず夏場まで最下位沈み苦戦した優勝争いから脱落してから調子上げたが、最終順位1991年以来6年ぶりのBクラスとなる4位、第2次長嶋監督時代では2度目借金でのシーズン終了した同年オフにはドラフト1順目高橋由伸入団宮本和知現役引退した1998年 開幕戦前年カムバックした桑田勝ち投手になりスタートダッシュ成功松井ルーキー高橋由の活躍もあり横浜中日との首位争い繰り広げるが、前半戦の勝ち頭趙成珉オールスターゲームで右肘を故障。さらにガルベス7月31日の対阪神戦阪神甲子園球場)において審判対しボール投げつけるという暴挙チームから離脱するなどアクシデント響きチーム3位終わった松井2年連続で1本差逃した本塁打王獲得し打点王、最高出塁率のタイトル獲得吉村禎章川口現役引退した1999年 村田真一広澤離脱後半戦清原故障によるシーズン離脱などもあったが、20勝を挙げた新人の上浩治前年西武解雇されドミンゴ・マルティネスシーズン途中獲得し清原穴を埋める活躍もあり2位となったチーム貯金15個。上原この年挙げた貯金16上原以外の投手陣課題の残るシーズンとなったシーズンオフ広澤自由契約となり阪神移籍した2000年 20世紀最後の年FA宣言をしていたダイエー工藤公康広島江藤智、さらに阪神ダレル・メイ獲得するなど大補強敢行長嶋監督は、江藤背番号33譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井4番として定着5番マルティネス清原、6番に高橋由を擁した打線シーズン投打ともに他を圧倒投手陣工藤・メイ・ルーキーの高橋尚成の左3枚がしっかりローテーションを守る。9月24日対中日戦(東京ドーム)では、0-4迎えた9回裏に江藤満塁本塁打同点追いつき、直後二岡智宏サヨナラ本塁打放ち4年ぶりのリーグ優勝劇的に決めた結果的に2位中日に8ゲーム差をつけた。日本シリーズ相手は、長嶋と共にV9時代主軸担った王が1995年から率いダイエーで、2連敗からのスタートだったがその後シーズン不本意な結果だった上原斎藤奮闘もあり4連勝。4勝2敗で19回目日本一達成し20世紀最後締めた2001年 シーズン終盤までヤクルト優勝争った投手陣不振2位に終わる。同年限り長嶋監督勇退し、「終身名誉監督」に就任した。それと同時に槙原寛己斎藤雅樹投手そして村田真一捕手引退した長嶋監督後任として、ヘッドコーチ原辰徳就任した

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