第2次長州征討に従軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)
元治2年(1865年)、乃木は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した。 慶応元年(1865年)、第二次長州征討が開始されると、同年4月(同年5月)、萩から長府へ呼び戻された。乃木は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口(現・山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)に加わった。この際、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げた。しかし、そのまま軍にとどまることはなく、慶応2年(1866年)、長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に入学(復学)した。 その後、報国隊は越後方面に進軍して戦闘を重ねたが、これに参加しなかった。明倫館在籍時に講堂で相撲を取り左足を挫いたことから、藩が出陣を許さなかったのである。乃木はなんとしても出陣しようと、脱藩を決意して馬関(現・山口県下関市)まで出たが、追捕され、明倫館に戻された。
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