第2次金軍侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
金軍が開封を離れるや否や欽宗は講和を破棄し、太原を包囲した金軍を撃退し、中山と河間の防衛を強化するために更に派兵を行った。しかし9万人と6万人の軍勢は6月までに金軍に敗れ、太原救出のための第2次遠征は失敗した。 宋の講和条約違反を非難すると共に宋軍の弱さに気付いた金側の将軍らは再び東西二面から第2次遠征を開始した。開封講和条約後太原から撤退し僅かな部隊に任せていた完顔宗望が西軍を率いて舞い戻り、太原は260日間の籠城戦の末に1126年9月に陥落した。太原陥落を受けて、宋朝政府では主戦派が失脚して再び和平派が優勢となった。12月中旬にも東西の金軍は第2次開封攻囲へ向けて合流した。 一方で完顔宗望が率いる東軍は9月8日に保州を出発し、当日のうちに雄州・中山府を征服した。9月15日には新楽を攻め落とし、26日には宋側大将の种師閔を井陘で破って天威軍・真定府を征服して、真定府知府であった李邈は捕えられて死んでしまった。西軍は11月18日に太原から威勝軍を、29日には懐州を攻略した。この時守将の霍安国が抵抗したため、その一族は族誅に処せられた。27日夜に黄河北岸に到着した金軍は宋の宣撫副使折彦質率いる12万の軍勢と黄河を挟んで対峙したが、夜通し軍楽を打ち鳴らして攪乱したために宋側は戦闘前に疲れてしまい、黎明には一兵も見えなくなっていた。そこでただちに金軍の偵察隊3千が密かに黄河を渡河して宋軍を攻撃すると、折彦質の方では金軍がみな渡河したと考え、驚き慌て28日明朝には全軍総崩れとなり敗走した。29日に完顔活女が盟津を渡り、洛陽・永安の宋軍は降伏した。30日には汜水より黄河を渡り、洛口の宋軍は鄭州に潰走した。東京開封府の城門は閉鎖され、城内では大混乱が発生して混乱に乗じた放火や略奪などが横行した。そんな中で康王趙構(後の高宗)は城外へ逃れた。東軍は11月20日に真定から開封へ向けて進軍した。22日には防衛が整っている事を知った完顔宗望らは恩州から大名府へと向かった。当時の大名府は対北方の最終防衛拠点であった。12月4日には黄河を渡河し、大名府に加えて臨河・徳清軍・開徳府を攻め落とした。そして12月9日には開封に到達した。17日には完顔宗翰らも開封に到着し、開封の包囲体制が整った。
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