海賊の黄金時代 1660年–1726年
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「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事における「海賊の黄金時代 1660年–1726年」の解説
詳細は「海賊の黄金時代」を参照 17世紀後期と18世紀初期(特に1716年から1726年)はカリブ海の「海賊の黄金時代」と考えられることが多く、海賊の港は大西洋とインド洋およびそれらを取り巻く地域で急速に成長した。さらにこの期間に実際に活動した海賊は約2,400人いた。新世界におけるスペイン帝国の軍事力は、フェリペ4世の跡をカルロス2世(在位1665年-1700年)が嗣ぎ、4歳でハプスブルク・スペイン最後の国王になった時に衰退を始めた。17世紀後期のスペイン領アメリカは、スペインが強国としての衰亡段階に入ったのでほとんど軍事的に守られておらず、スペイン王室の重商主義政策で経済にも悪影響があった。母国の干渉が無いことに、奴隷労働力(砂糖需要によって多くの奴隷がカリブ海に連れてこられていた)の有用性が高まったことで銀鉱山からの産出量が上昇したことが組み合わされ、スペイン領アメリカの運命における再興が始まった。 イングランド、フランス、オランダは1660年までにそれぞれの領有権の中で新世界植民地強国となっていた。ヴェストファーレン条約調印以降、オランダの商業的に大きな成功を心配したイングランドは、オランダとの貿易戦争を仕掛けた。イングランド議会は1651年に航海法、1663年にステイプル法と重商主義的法の初期のものを成立させ、イギリス領植民地の商品はイギリス船でのみ運ぶこととし、イギリス領植民地と外国の貿易に制限を課した。これらの法はオランダの商人が自由貿易に依存して活性化されているために、これをねらい打ちしたものだった。この貿易戦争はその後の25年間で3回の英蘭戦争に続いていった。一方フランスのルイ14世(在位1642年-1715年)は、その母で摂政でもあるオーストリア女大公のアンヌ・ドートリッシュと宰相ジュール・マザラン枢機卿が1661年に死んだことで、その親政を開始した。「太陽王」と呼ばれたルイの積極的外交政策は、神聖ローマ帝国と接する東国境を拡大し、イングランド、オランダ、ドイツの群小国、およびスペインとの移り変わる同盟に対し戦争状態を継続することだった。17世紀後期のヨーロッパはほとんど常に陰謀と戦争で費消されており、海賊や私掠船がその血塗られた貿易に従事する絶好の時だった。 カリブ海では、この政治的環境によって植民地総督はあらゆる方向からの脅威に直面していた。オランダの砂糖生産島であるセント・ユースタティウス島では、イングランドとオランダが覇権を争い、1664年から1674年の間に支配者が10度変わった。ヨーロッパ諸国は母国での戦争で疲弊し、植民地には軍事的援助がほとんどできなかったので、カリブ海の植民地総督はバッカニアを傭兵や私掠部隊として使うようになり、植民地の防衛と母国の当面の敵に対する戦闘に使った。これら規律が無く貪欲な戦争の犬は、雇い主の制御が難しくなることが多かった。 17世紀後期までに、カリブ海のスペイン領にある大きな町は繁栄を始め、スペイン本国も緩りと断続的な回復を始めたが、スペイン自身の問題のためにそれらの町は軍事的な守りが薄く、海賊や私掠船の容易な餌食になることがあった。イングランドの支配権は、イングランド自体がヨーロッパで強国にのし上がっているときだったので、カリブ海でも拡大を続けた。ジャマイカは1655年にスペインから奪い、その主要開拓地であるポートロイヤルはスペイン帝国の中にあってイングランドのバッカニアの新しい退避地になった。ジャマイカはセントキッツと共にカリブ海におけるイギリス支配の中心に緩りと変わっていった。これと同時期にフランス領小アンティル諸島のグアドループとマルティニークはカリブ海におけるフランス権力の中心となり、砂糖プランテーションが次第に利益を上げるようになったので、フランス領の中でも最も裕福な存在になった。フランスはまたイスパニョーラ島西部周辺、トルトゥーガ島とイスパニョーラ島の首都プティゴアーベの伝統的な海賊港で私掠船の地盤を維持した。フランスはイスパニョーラ島西半分の開拓地を拡大し、レオガンとポールドペを設立し、砂糖プランテーションが植民地の主要産業になった。 18世紀になると、ヨーロッパは戦争と継続する外交的陰謀で分裂したままだった。フランスは依然として強国だったが、新しいライバルであるイングランドと競うことになった。イングランドは1707年にイギリス(グレートブリテン王国)となり、スペイン継承戦争の間に海陸で強国にのし上がってきた。しかし17世紀後半にアメリカ大陸で海賊やバッカニアによる略奪行為、および三十年戦争のドイツにおける傭兵による略奪行為によって、国王や国のためというよりも利益のために戦ってきたヨーロッパの支配者と軍事指導者は、彼等が略奪した地域の経済を破滅させることが多かったことを理解した。アメリカ大陸の場合はカリブ海全体がこれに該当した。これと同時期に、ヨーロッパ列強はうち続く戦争のために大規模な常備軍とより大きな海軍を備えるようになり、地球規模の植民地戦争に対応した。1700年までにヨーロッパ各国は意のままになる陸軍と艦船を所有し、私掠船に頼ることなく、西インド諸島とアメリカ大陸の重要な植民地を守り始めた。このことが私掠船の運命を変え、バッカニアにとっての気楽な(かつ申し分なく合法な)生活を変えた。スペインは植民地時代の残り期間で弱小国のままだったが、大多数の海賊が1730年以後消滅した。これはジャマイカのポートロイヤルを基地とする新しいイギリス海軍戦隊と、沿岸警備隊と呼ばれたスパニッシュ・メインからの私掠船小船団に海から追われたためだった。西インド諸島には正規兵部隊が駐屯し、私掠免許状は取得が難しくなっていった。 17世紀後期と18世紀初期は、カリブ海の領土を支配する全ての国にとって、経済的に富と貿易を成長させた時だった。18世紀半ばまである程度の海賊行為が常に残っていたが、将来的にカリブ海を富ませる道筋は、成長するタバコ、米、砂糖の平和的な交易と、イギリスの航海法やスペインの重商主義法を避ける密貿易とされた。ナッソー港が海賊にとって最後の退避港となった。イングランドの海賊によって1638年に設立されていたホンジュラスのベリーズは、元スペイン領だったが、小さなイギリスの植民地として成長した。カリブ海のフランス植民地帝国は18世紀初めまでにそれほど成長してはいなかった。グアダルーペとマルティニークの砂糖の島はフランス領小アンティル諸島の双子の経済首都のままであり、イギリスのカリブ海植民地の最大のものと同じくらいの人口があり、繁栄していた。トルトゥーガ島の重要性は小さくなったが、フランスのイスパニョーラ島開拓地は、島の西海岸一帯に砂糖プランテーションが拡大したので、アフリカ人奴隷の主要輸入地となった。そこから現在のハイチの核ができた。
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