権力闘争が続く自民党と三木
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「三木武夫」の記事における「権力闘争が続く自民党と三木」の解説
三木の後を継いだ福田政権は、与野党伯仲の中での厳しい政権運営を強いられたが、福田、田中、大平三派に支えられ、党内での立場は比較的安定していた。三木派からは幹部の河本敏夫(三木内閣で通産相)が政調会長、続いて通産相を務め、要職を歴任する中で自民党内の実力者となっていった。福田は三木が政権退陣時に発表した「私の所信」を引き継ぎ、1977年(昭和52年)4月の自民党党大会で総裁選に全党員による予備選挙を導入することが決定された。 比較的安定していた福田政権であったが、内部では福田と幹事長となった大平との綱引きが進行していた。福田は衆議院解散、総選挙に打って出て、与野党伯仲状態を解消した上での総裁再選を狙った。しかし大平らの反対もあって結局解散総選挙は叶わず、1978年(昭和53年)11月に総裁選を迎えることになった。三木も総裁選に出馬する気持ちがなかったわけではないが、立候補したところで福田、大平の後塵を拝することは明らかであり、三木派内からも出馬の声は高まらなかった。しかし三木派から誰も総裁選に出馬しないとなると他派閥の草刈場となりかねず、三木派からは三木の打診で河本が出馬。福田、大平、中曽根康弘とあわせて、4人での対決となった。 ロッキード事件の裁判を抱えていた田中にとって、福田よりも盟友である大平の方が政権担当者として安心感があった。田中は大平への全面支援を決断し、田中派が中核となって全国の党員に対して大平への投票を働きかけた。三木は決選投票時には田中が支援する大平ではなく、福田の支持に回る予定であったと言われている。しかし11月27日の予備選挙開票の結果は大平が1位となり、福田は本選への出馬を辞退した。三木の「所信」から実現した全党員による総裁予備選は、結果として党員の末端まで派閥の系列化が進むという皮肉な結果をもたらした。 大平執行部において、三木派からは河本が政調会長になる。これを契機に三木から河本への派閥の継承が進むかと思われたが、三木は派の実権を握り続けた。大平は1979年(昭和54年)9月に衆議院を解散し、総選挙に打って出た。大平は財政難克服のため、一般消費税の導入を訴えた。しかし解散直後に日本鉄道建設公団の不正経理が明るみに出て、税金の無駄遣いに対する国民の批判が高まる中でも増税を唱える大平の姿勢に、世論や野党のみならず自民党内からも批判が殺到した。結局選挙戦の最中に大平は一般消費税を引っ込めざるを得なかった。10月7日の投票日は全国的に荒れ模様の天気となり、投票率は伸び悩んだ。自民党は前回のロッキード選挙を更に下回る248議席と惨敗を喫した。一般消費税問題と、低投票率が敗因と考えられた。 10月8日、三木は大平の選挙敗北責任追及の口火を切った。前回選挙の自身と同様、選挙敗北の責任をとって辞任するよう求めたのである。福田、三木、中曽根三派の議員たちが相次いで大平の辞任を要求し、大平の辞任をあくまで拒否する大平、田中両派との間にいわゆる四十日抗争が勃発する。大平は事態打開を図って三木、福田、中曽根と個別に会談するなどしたが結局両者の間の溝は埋まらず、大平、田中両派の主流派は大平を首相候補とし、反主流三派は、「自民党をよくする会」を結成して福田を首相候補とするという、同一政党から二名の首相候補が出るという異常事態となった。 11月6日、首班指名選挙の本会議を前に行われた「自民党をよくする会」の総会の席で、三木は「主流派との戦いは、力と道義との戦いであるとし、道義が数やカネの力に敗れてはならない」と主張し、総選挙敗北という国民の審判を受けても辞めようとしない大平と、数、そしてカネの力で大平を支える田中を痛烈に批判した。 首班指名選挙の結果、大平が福田を抑えて首相に選ばれた。首班指名選挙では分裂した自民党であったが、組閣、党役員人事では分裂は避けられ、これまで通りの各派閥均衡の人事が行われ、表面上いったん自民党内の混乱は収まった。ただし第2次大平内閣では三木派からの閣僚は、三木派内で主流派寄りの動きをした人物が選ばれ、更に阿波戦争のしこりがあって三木と関係が悪い後藤田正晴を入閣させるなど、三木や三木派にとって厳しい人事であった。三木や福田は引き続き、大平政権を継続させて自身の政治生命の継続、さらなる拡大を目指す田中に対して反発し続けることになる。 1980年(昭和55年)4月には、反主流三派が自民党刷新連盟(赤城宗徳代表世話人)を結成し、大平政権との対決姿勢を強めた。野党提出の内閣不信任案提出への対応を巡って、強硬論を唱える三木に対し、福田は自重するよう働きかけていた。しかし5月16日の不信任案採決当日になって、三木は衆議院第一議員会館の会議室に立てこもり、人を呼び集める事態となった。福田や中曽根、そして自民党刷新連盟の幹部も集結する中、本会議開会の時間を迎え、桜内義雄幹事長が二度に亘り説得を試みるものの、三木や福田は動こうとはしなかった。中曽根は不信任案採決寸前に本会議場に入ったものの、三木や福田らは動かなかった。結局69名もの自民党議員が採決を欠席したため、不信任案は可決されてしまった。 内閣不信任を受けて大平は衆議院を解散する。5月20日に反主流派は河本、安倍晋太郎を代表世話人として党再生協議会を結成し、大平執行部との対決姿勢を強めた。しかし衆議院解散は参議院議員通常選挙と時期が重なり、衆参同日選挙が行われることになり、参院選候補は派閥を横断した形での支援を要していた。そして党再生協議会の議員も落選を恐れるようになるなど、分裂の危機感に直面した自民党内には求心力が働くようになった。更には自民党分裂を嫌う財界の働きかけもあり、5月22日には執行部と党再生協議会の間に妥協が成立し、またしても自民党は分裂を免れた。 大平は選挙戦の最中に倒れ入院となり、6月12日に死去する。大平の急死はこれまでの激しい抗争とうって変わって自民党の団結をもたらし、弔い合戦の掛け声の中、6月22日の衆参同日選挙は衆参両院とも自民党が圧勝する。選挙後、大平派の幹部で総務会長を8期務め、党内調整役として定評があった鈴木善幸が政権の座に就く。 大平政権下での激しい党内抗争において、三木は福田とともに反主流派の先頭に立ち、田中、大平らの主流派と激しく対立した。三木には同一政党から二人の首相候補が出て、与党自民党議員の大量欠席によって内閣不信任案が可決するという事態を生み出した責任があるとの意見もある。
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