権力闘争の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
1906年、メネリク2世は脳溢血に倒れる。メネリクの容態は徐々に快方に向かうが、すでに高齢となっていたことから一線への復帰はほぼ不可能となっていた。メネリクの後継者と目されていた有力者は、長年メネリクの右腕として働き、アドワの戦いで軍を率いたハラレ総督マコンネンと、かつてヨハンネス4世(英語版)から後継者指名を受け、アドワの奮戦で名を上げたティグレのマンガッシャだったが、この時期相次いで病没していた。メネリクは自分の没後のことを考え、皇帝を補佐する内閣制度を1907年に創設し、1908年には後継者として娘のシャワラッガとその夫のウォロのミカエル(英語版)の子、つまり孫のリジ・イヤスを後継者に指名した。だが、この後継者指名に納得しなかったのが、メネリクに代わって実権を掌握しつつあった妻のタイトゥ(英語版)だった。タイトゥはイヤスの12歳という若さを懸念し、メネリクの前妻の娘ザウディトゥを後継者に推す。甥のググサ・ワレを結婚させ、ショワのザウディトゥとティグレのググサとを結びつけた上で権力を握ることが目的だった。ショワの勢力もティグレとショワの融和の必要性では同意していたが、タイトゥ自身が北エチオピアの利害を代表する人物だったため異議を表明し、ショワのリジ・イヤスとティグレのマンガッシャの娘との結婚を提案した。しかし、タイトゥは譲歩することはなく、次第にエチオピア宮廷はイヤス派とタイトゥ派に分断されるようになっていった。 1909年、リジ・イヤスはマンガッシャの娘と結婚すると同時に非公式ながら皇位を継いだ。これに伴ってショワの貴族タサンマ・ナダウが摂政の称号を受けるが、実権はタイトゥが手放さず、ザウディトゥの擁立も未だ諦めていなかった。イヤス派はこの状態を変えるべく、タイトゥ派の投獄や、ショワのアバテをティグレの君主に任命して内乱を起こさせたが、1910年にはついに陸軍大臣ハブタ・ギヨルギスを動かしてタイトゥへのクーデターを起こす。タイトゥはこの時期、夫の介護に忙殺されていたために対応できず、エチオピア正教の大司祭も中立の立場を崩さなかったことからタイトゥはタサンマらの要求を飲み、以後しばらくは皇帝の介護に専念する。またこの時期には、病死しなければ皇位は確実とされていたハラレ総督マコンネンの子、ラス・タファリ・マコンネン(後のハイレ・セラシエ)がウォロの君主の孫娘と結婚していた。タファリはクーデターにも関わっていなかったことから、ハラレ総督の地位を父から継ぐにあたって、タマンサとタイトゥという対立する二人から同時に支持を受け、その人気を背景にして着実に足場を固めていった。 リジ・イヤス(イヤス5世)を皇位につけ、摂政となったタサンマはエチオピアの実権を掌握するが、その栄華は1年で尽きた。1911年4月、梅毒によってタサンマは死去する。これによりタイトゥ派が息を吹き返し、財務大臣のアバタ・ブワヤラウを通じて影響力を駆使しようとした。しかし、陸軍大臣ハブタ・ギヨルギスはアバタの専横を許さず、またイヤスの父のミハイルは8,000人の兵を率いてアバタを捕らえて獄に下した。
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