権勢と薩摩藩政への影響
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この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基となった。一方、実母である市田氏はその権勢により弟の市田盛常を薩摩藩一所持格(本来島津一族でないとなれない地位)に取り立て、同じ重豪側室で島津斉宣の母である公家の娘・堤氏(お千万の方)を江戸から鹿児島に追い出し、自らは重豪の正室同様にふるまった。このような市田一族による薩摩藩政の私物化は、後の近思録崩れの原因の一つとなった。 寛政8年(1796年)には家斉の五男・敦之助を産む。御台所が男子を出生するのは2代将軍・徳川秀忠正室お江与の方以来であった。ただし、その3年前に側室が産んだ敏次郎(後の家慶)が将軍家世子と定められていたため、敦之助は御三卿の一つ・清水徳川家が再興されてその当主となった。この慶事により茂姫および島津重豪の威勢はますます盛んになった。が、敦之助は3年後の寛政11年(1799年)に夭逝した。また、寛政10年(1798年)にも懐妊するが流産している。 とはいえ、御台所となって以来、側室が生んだ数多い家斉の子供は、すべて「御台所御養」として茂姫の子とされ、正室としての権勢はゆるぎのないものだった。 異母弟で9代藩主の島津斉宣が隠居後、財政難を理由に幾度も幕府に要請した薩摩帰国が却下されたのは、広大院の意図によるものとされるが、その理由は享和元年の母・お登勢の方(市田氏)死後に斉宣が市田一族を薩摩藩政から排除したことに対して広大院が激怒したことにあるといわれ、御台所の権威を背景に、薩摩藩政にも大きな影響力を及ぼした。 天保3年(1832年)には、市田義宜(甥で薩摩藩家老)を通じて藩主・斉興(広大院から見れば義宜と同じく甥にあたる)に、嫡子・斉彬の養子として夫・家斉の嫡男である家慶の子・初之丞を入れるよう持ちかけたが、義宜と斉興は広大院に丁寧に断りをいれている。
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