権勢と薩摩藩政への影響とは? わかりやすく解説

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権勢と薩摩藩政への影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 16:09 UTC 版)

広大院」の記事における「権勢と薩摩藩政への影響」の解説

この結婚により、島津重豪前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍といわれる権勢の基となった一方実母である市田氏はその権勢により弟の市田盛常薩摩藩一所持格(本来島一族でないとなれない地位)に取り立て、同じ重豪側室島津斉宣の母である公家の娘・堤氏お千万の方)を江戸から鹿児島追い出し、自らは重豪の正室同様にふるまったこのような市田一族による薩摩藩政の私物化は、後の近思録崩れ原因一つとなった寛政8年1796年)には家斉の五男・敦之助を産む。御台所男子出生するのは2代将軍徳川秀忠正室お江与の方以来であった。ただし、その3年前側室産んだ次郎(後の家慶)が将軍家世子定められていたため、敦之助は御三卿一つ清水徳川家再興されてその当主となった。この慶事により茂姫および島津重豪威勢はますます盛んになった。が、敦之助は3年後寛政11年1799年)に夭逝した。また、寛政10年1798年)にも懐妊する流産している。 とはいえ御台所となって以来側室生んだ数多い家斉の子供は、すべて「御台所御養」として茂姫の子とされ、正室としての権勢はゆるぎのないものだった異母弟で9代藩主島津斉宣隠居後財政難理由幾度も幕府要請した薩摩帰国却下されたのは、広大院意図よるものとされるが、その理由享和元年の母・お登勢の方市田氏)死後に斉宣が市田一族薩摩藩政から排除したことに対して広大院激怒したことにあるといわれ、御台所権威背景に、薩摩藩政にも大きな影響力及ぼした天保3年1832年)には、市田義宜(甥で薩摩藩家老)を通じて藩主・斉興(広大院から見れば義宜と同じく甥にあたる)に、嫡子・斉彬の養子として夫・家斉嫡男である家慶の子・初之丞を入れるよう持ちかけたが、義宜と斉興は広大院丁寧に断りをいれている。

※この「権勢と薩摩藩政への影響」の解説は、「広大院」の解説の一部です。
「権勢と薩摩藩政への影響」を含む「広大院」の記事については、「広大院」の概要を参照ください。

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