権勢への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:30 UTC 版)
更に紀元前539年、陳無宇は鮑国と共に、政敵の欒施と高彊(共に恵公の曾孫)を失脚させ、魯に追放すると、景公から両氏の領地財産を与えられるが、晏嬰の勧めでそれらを辞退する。しかし、穆孟姫がそれを哀れみ、彼女の口利きで高唐(山東省聊城市高唐県)を与えられる。陳無宇は交通の要衝であるこの地を得たことで、経済的に強大化していく。そして晏嬰を執政として表舞台に据え、自身は裏方の卿として陳氏の基盤を更に固めていった。その陳無宇の動きに晏嬰は、斉はいずれ陳氏の手に落ちることを予見した。 死後、「桓」を諡され、陳桓子(もしくは田桓子)と呼ばれる。陳氏(田氏)は晏嬰の危惧どおり、陳無宇の子の田開(田武子)・田乞(田釐子)兄弟や孫の田恒(田成子)の代に強大化し、ついには斉公室をも上回っていくのである。
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