権勢の低下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 13:55 UTC 版)
「ハンス・ハインリヒ・ラマース」の記事における「権勢の低下」の解説
1943年1月からはヒトラー不在の閣議においては、ラマースが彼の代理とすることと定められた。彼は党官房長マルティン・ボルマンとともにヒトラーの面会相手をコントロールしたため、強大な権力を持った。同年の公用文書で「大ドイツ国(Großdeutsches Reich)」の国号を初めて用いたのも、ラマースによるものであった。スターリングラード攻防戦後の1943年2月には、ボルマンとラマースは、党を代表するボルマンと政府を代表するラマースと軍を代表するヴィルヘルム・カイテルによる「三人委員会」を創設した。しかし、ゲッベルスやアルベルト・シュペーア、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラーなど他のナチ党幹部に警戒されて、1944年に解散した。さらに、戦局の悪化で党・軍・官庁の連携が失われていったことでラマースの影響力は低下し、反対にボルマンの影響力は増大していった。 大戦末期の1945年4月24日、ラマースはゲーリングの「反逆」に関与した容疑で逮捕された。これはボルマンの陰謀であった可能性があるが、ヒトラーは銃殺に反対したため命は助かった。彼は5月にアメリカ軍によって解放されたが、オーバーザルツベルクにいた妻エルフリーデはこの拘束の最中に自殺しており、2日後には娘イルゼも自殺した。解放後、ラマースはゲーリングをはじめとする党と軍の幹部と共に、モンドルフ=レ=バン(英語版)のアシュカン収容所に収容された。
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