棋聖戦の歴史
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以下の項目では、日本国内で開催される棋聖戦について説明する。 棋聖戦が始まる前、読売新聞社は1957年から日本最強決定戦を開催し、1961年からは日本最強決定戦からの移行となる名人戦を主催していた。しかし、当時「狂乱物価」とも呼ばれた物価高騰のなか、1974年まで日本棋院からの契約金増額要請に主催者の読売新聞がほとんど応じなかったことから、日本棋院では名人戦の朝日新聞への移管を進め、1974年末に契約打切りを読売新聞に通告した。 読売新聞はこれに反発し傘下メディアを通じて日本棋院の対応を批判し続け、1975年8月には日本棋院を相手にした訴訟を起こした。同時に水面下の交渉を行い、日本棋院顧問岡田儀一による「名人戦は朝日と契約」「読売は序列第一位の新棋戦、最高棋士決定戦・棋聖戦を新たに契約」(岡田私案)とする斡旋案で、同年12月10日に和解した。この経緯は「名人戦騒動」として知られ、将棋の名人戦契約にも大きな影響を与えた。 棋聖戦は、この「名人戦騒動」の渦中から生まれ、1976年にスタートした。当時全盛の林海峰や木谷實一門の実力者たちを退け、第1期棋聖戦の最高棋士決定戦トーナメントを勝ち上がったのは、藤沢秀行・橋本宇太郎の両ベテランであった。決勝七番勝負では藤沢が70歳の橋本を4-1で降し、初代棋聖の座に就いた。 翌1977年の第2期は、四冠を保持する挑戦者・加藤正夫を迎え、藤沢はたちまち1勝3敗に追い込まれる。このカド番・第5局で藤沢は、2時間57分という大長考を払って加藤の大石を全滅させ、気迫の勝利を挙げた。最終局でも藤沢は半目差で逃げ切り、大逆転での防衛を果たした。 以降藤沢は超一流の挑戦者を迎えるも毎年ことごとく撃退、50代で棋聖戦6連覇を果たした。しかし1983年の第7期、挑戦者の趙治勲は3連敗から残り4番を連勝して棋聖を奪取、世代交代を果たした(藤沢はこの時期胃ガンが進行していた)。 1986年、3連覇を果たした趙は兄弟弟子 の小林光一を挑戦者に迎えるが、直前に交通事故で両足と左手を骨折する重傷を負う。不戦敗やむなしとの声もあった中、趙は車椅子で対局に臨み、逆境の中2勝を挙げるが力尽き、小林に棋聖を明け渡した。以降小林は8連覇を果たし、碁界の第一人者として君臨する。この間、加藤正夫は3度棋聖に挑み、奪取すれば趙に続くグランドスラム達成となったが、全て小林の壁に阻まれた。 1994年、小林の連覇を止めたのは、宿命のライバル・趙であった。その翌年、小林覚が挑戦者として登場。初挑戦にして趙を降して棋聖の座に就く。しかし翌年には趙がすかさず奪回。するとその翌年、再び小林覚が挑戦者となり、3年連続同一カードとなった。趙はこの対決を制し、再び大三冠に君臨した。 2000年、趙の5連覇による名誉棋聖資格獲得を阻んだのは王立誠であった。王の3連覇目、挑戦者に柳時熏を迎えた第5局で、柳はダメ詰めの最中にアタリを放置、王がこれを打ち抜いて逆転勝ちするという事態が生じた。立会人裁定で王の勝利が認められたが、ルール・マナー・美学など様々なレベルで物議を醸すことになった。 2001年、推薦棋士枠の存在や、出場人数が年ごとに一定しないことなど、批判の声があった最高棋士決定戦方式を取りやめ、挑戦者選定はAリーグ・Bリーグに6人ずつ属する2リーグ制に変更となった。 2003年、山下敬吾が挑戦者として登場。第4局の封じ手でハナヅケの妙手を放つなど王を圧倒し、4-1で棋聖を奪取する。しかし翌年は羽根直樹の粘りに屈し、1年で棋聖を明け渡した。2005年には結城聡が挑戦権を獲得、関西棋院の棋士として28年ぶりの七番勝負に挑んだが、3勝2敗から後を連敗し、関西の悲願は成らなかった。 翌2006年は山下敬吾が4-0のストレートで棋聖を奪回、翌年の小林覚の挑戦も4-0で降し、実力を見せつけた。2008年には「七番勝負の鬼」趙治勲を挑戦者に迎えたが、乱戦に次ぐ乱戦を制してフルセットで山下が防衛、翌2009年には、実力者依田紀基をも4-2で撃破し、4連覇を達成した。2003年から2010年まで、1期を除いて山下は毎年挑戦手合に登場しており、現代の「棋聖戦男」と呼ばれた。 2010年、山下が5連覇による名誉棋聖資格の獲得、挑戦者の張栩がグランドスラムの達成、という対局者双方に大きな記録が懸かった勝負となった。結果は張栩が4-1で山下を降し、山下の名誉棋聖資格獲得を阻むと同時に、史上二人目のグランドスラムを達成した。 2011年、前期にグランドスラムを達成した張栩と挑戦者・井山裕太によって争われた。張栩が、3勝2敗で防衛に王手を掛けた第6局2日目の3月11日には、対局場となった山梨県甲府市の常磐ホテルも地震に見舞われ、8分の一時中断後打ち切り、張栩が1目半勝で防衛に成功した。翌2012年も高尾紳路の挑戦をフルセットの末に降して3連覇を果たすが、2013年には井山裕太の再挑戦の前に4-2で棋聖を明け渡す。井山は23歳で史上最年少棋聖となると共に、史上初の六冠王、3人目のグランドスラム達成を果たした。 2014年からは、現行の4段階リーグにシステムが変更となった。井山はこの年以降も防衛を続け、2021年現在9連覇を続けていた。「棋聖戦男」山下敬吾は2014~2016年、2019年と4度井山に挑戦しているが、全て退けられていた。しかし第46期挑戦手合で一力遼が井山の10連覇を打ち砕いた。 第46期まで、棋聖を冠したのはわずか10人。そのうち名誉棋聖の藤沢、小林光一、井山と、名誉棋聖にあと一歩まで届いた趙と山下の5人で通算36期を制している。 棋聖戦リーグ入りした棋士:王立誠、趙治勲、淡路修三、今村俊也、楊嘉源、石田篤司、柳時熏、石田芳夫、宮沢吾朗、長谷川直、彦坂直人、張栩、三村智保、山田拓自、羽根直樹、溝上知親、依田紀基、中小野田智己、小林覚、山下敬吾、王銘エン、結城聡、本田邦久、加藤充志、小松英樹、高尾紳路、山城宏、井山裕太、片岡聡、河野臨、清成哲也、李沂修、秋山次郎、瀬戸大樹、小林光一、村川大介、張豊猷、一力遼
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