日本陸軍の作戦中止及び退却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 07:14 UTC 版)
「インパール作戦」の記事における「日本陸軍の作戦中止及び退却」の解説
この時期、中国軍のインド遠征軍にアメリカ軍の小部隊を加えた空挺部隊及び地上部隊がビルマ北部の日本軍の拠点であるミイトキーナ(現在のミッチーナー)郊外の飛行場を急襲し占領しており、守備隊の歩兵第114連隊や援軍として投入された第56師団と激戦を繰り広げていた(ミイトキーナの戦い)。この他、ビルマ東部では中国軍雲南遠征軍が怒江を渡河して日本軍の守備隊のいる拉孟や騰越を包囲しており(拉孟・騰越の戦い)、インパール方面の戦線は突出していた。 6月5日、牟田口をビルマ方面軍司令官河辺正三中将がインタギーに訪ねて会談。2人は4月の攻勢失敗の時点で作戦の帰趨を悟っており、作戦中止は不可避であると考えていた。しかし、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。この時の状況を牟田口は、「河辺中将の真の腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。私は最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」と防衛庁防衛研修所戦史室に対して述べている。これに対して河辺は、「牟田口軍司令官の面上には、なほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」と、翌日の日記に記している。こうして作戦中止をためらっている間にも、弾薬や食糧の尽きた前線では飢餓や病による死者が急増した。 7月3日、作戦中止が正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力はわずか1万2千人に減少していた。しかし、実情は傷病者の撤収作業にあたると言え、戦闘部隊を消耗し実質的な戦力は皆無で、事実上の壊走だった。杖を突き、飯盒ひとつで歩く兵士たちは、「軍司令官たる自分に最敬礼せよ」という、撤退の視察に乗馬姿で現れた牟田口の怒号にも虚ろな目を向けるだけで、ただ黙々と歩き続けた。だれも自分を顧みないことを悟った牟田口は、泥まみれで悪臭を放つ兵たちを避けながら帰っていった。 7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部を集め、泣きながら次のように訓示した。 諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。 兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは、戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる… — 第15軍司令官 牟田口廉也 退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様から「白骨街道」と呼ばれた。イギリス軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。伝染病にかかった餓死者の遺体や動けなくなった敗残兵は、集団感染を恐れたイギリス軍が、生死を問わずガソリンをかけて焼却した他、日本軍も動けなくなった兵士を安楽死させる“後尾収容班”が編成された。また負傷者の野戦収容所では治療が困難となっており、助かる見込みのない者に乾パンと手榴弾や小銃弾を渡して自決を迫り、出来ない者は射殺するなどしている。 悲惨な退却戦の中で、第31歩兵団長宮崎繁三郎少将は、佐藤の命令で配下の歩兵第58連隊を率いて殿軍を務め、少ない野砲をせわしなく移動し、優勢な火砲があるかのように見せかけるなど、巧みな後退戦術でイギリス軍の追撃を抑え続け、味方に撤退する時間をいくらか与えることに成功した。また、宮崎は脱落した負傷者を見捨てず収容に努め多くの将兵の命を救った。 牟田口ら第15軍司令部は、指揮下の部隊の撤退に先行する形でチンドウィン川を渡って、シュエジンへと移動した。さらに牟田口は、7月28日頃に副官のみを伴って司令部を離れ、さらに後方のシュエボへと向かった。牟田口によれば、シュエボへの先行は同地にいた方面軍兵站監の高田清秀少将との撤退中の食糧補給に関する打ち合わせのためであった。しかし、部下よりも先に後退するこの行為は将兵の強い不満を招き、河辺方面軍司令官も牟田口らを非難した。牟田口は、その後、8月4日頃にシュエボ北西で軍主力の退路に予定されたピンレブ付近を視察。シュエジンに戻る途中でシュエボまで後退中の第15軍司令部に出会い、合流した。 一方、イギリス軍は、第33軍団を投入して追撃戦を行った。雨期に入っていたため、イギリス軍もマラリアなどの戦病者が多発する結果となった。イギリス側は、追撃を強行したからこそ日本軍の再建を有効に阻止することができたと自己評価している。 8月12日、大本営は「コヒマ及びインパール周辺の日本軍部隊は戦線を整理した」と発表した。 8月30日、牟田口軍司令官と河辺方面軍司令官はそろって解任され、東京へ呼び戻された。
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